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あらゆる履歴が蓄積され、履歴に基づき最適な行動を提案することも可能になった世の中において、企業はデータをどのように活用していくことが求められているのでしょうか。株式会社インフォバーンのデザイナー 木継則幸さん、川原光生さん、日立製作所研究開発グループ 社会イノベーション協創センタ 主管デザイナー 柴田吉隆からの問いに、立命館大学大学院教授 千葉雅也教授が近代社会の成り立ちを踏まえた持論を展開されました。

[Vol.1] 現代思想から見る現代のサービス
[Vol.2] “知らない”という自由を尊重できるか
[Vol.3] 管理しない「余地」のある社会システム

技術進歩には程よいブレーキを

柴田:
次は、データの活用について話していきたいと思います。

企業行動を記録し、改ざんできないようにしてトレーサビリティを上げられるようになって、「履歴が残る」世界になってきています。これによって、いままでは「安いから」とか「便利だから」という理由で選んでいたものが、自分の目の前にある選択肢の意味や、それを選ぶことの効果が分かった上で行動できるようになっていくのではないかという期待があります。

また、街づくりのように、効果が曖昧だったものの効果が分かるようになって予算が取りやすくなるなど、いままではあまり評価されていなかった活動をしていた人たちが認められるようになってくるのではないかと思っています。

一方で、情報化していくことで監視社会的な側面が強まったり、KPIを設定することで本当は素晴らしい活動だったものが少し歪んでいってしまったりすることもあるかと思います。

もちろん、企業としては、人々をエンパワーするためのデータ活用でありたいと思ってサービスを考えています。履歴を残すことが、良い状況をもたらしていくためには、どんなことに注意していかなければいけないと思われますか?

千葉さん:
ほどほどだったらいい、という話だと思います。それが難しいわけですが。やり始めると、技術的にできちゃうことって、やっちゃうわけです。科学って止められないんですよ。できることを全部やる、行くところまで行く。だから僕は、ひたすら嘆き続けることになると思います。「世の中悪くなった、悪くなった!」って。

理系の人たちは、基本的にできることを行うというスタンスなのだと思います。それに対して文系の人間の仕事は、わざと挑発的な言い方をしますが、足を引っ張ることです。文系には、独特の特権性があります。理系は合理的な説明でしか物事を進められないけれど、文系は、極論を言えば、全く根拠のない禁止ができるんです。それが「法」の本質です。法には、究極的には根拠がないんですよ。「駄目だ」と言ったら駄目なんです。

画像: 技術進歩に対して、哲学者はブレーキをかける役割がある、と千葉さん

技術進歩に対して、哲学者はブレーキをかける役割がある、と千葉さん

ただそれを、いきなり断定したら独裁になっちゃうから、みんなで議論したという体(てい)を作らなきゃいけないんですね。「議論した」という儀礼的ともいえる満足感が必要です。人間社会は、その文系的な儀礼性によって、ある種の技術的急進主義が激化しないように、微妙にブレーキをかけながら進んできたと言えるんですね。

日常生活に管理意識を持ち込んではいけない

千葉さん:
トレーサビリティの話について思うのは、人には知らなくていいことがある、ということです。知らない権利、たとえば、自分の健康状態を完全には検査しない権利とかね。病院に行かない人は、合理的に考えたら良くないですよ。良くないけど、知らない方がいいことっていうのはあったりする。

予防医療の考え方によって、とにかくリスクを減らすように毎日の食べ物をコントロールし、あるいはスーパーの商品がどういう経路で届いて、それがエココンシャスかどうか調べる、みたいな生活では、認知リソースを大変に消費されることになります。人間の認知リソースは有限なのに、そういうことばかり気にし始めたら、古典文学を読んだり、映画の名作を見たりする時間が取れなくなりますよ。

木継さん:
確かに、データ主義とかエビデンス主義によって、「長生きすれば良い」とか、「睡眠時間がこれだけあれば良い」とか、単一思考で考えさせられてしまう。自由に生きるという本来的な欲求をもう見失っていますよね。

画像: 履歴が残る社会において、人間本来の「自由な生き方」が見失われがちだと実体験をもって語る木継さん。

履歴が残る社会において、人間本来の「自由な生き方」が見失われがちだと実体験をもって語る木継さん。

千葉さん:
そもそも最近のテクノロジーによる延命や長寿をめざすということも「一体それをめざして、だから何だ?」ということを見失っている気がしますよね。

柴田:
じゃあどこまでやっていいのか、ということについては、何か基準を示せるようなものではなく、進める人と足を引っ張る人とのせめぎ合いが重要だということですかね?

千葉さん:
そうですね。これからの環境問題をどうするか、そのために抜本的なものごとの捉え直しが必要ではないかという議論はいったん保留するとして、これはかなり個人的な意見ですが、生活の基本的なイメージということでは、大体2000年代から2010年代ちょっとぐらいまでの状況が基準なのではないかと思っています。18〜19世紀に市民社会、科学主義、進歩主義が始まり、それが20世紀を通して肉づけされて、いまにも続く生活のスタンダードが21世紀初めにおおよそできた。たとえば、食べ物のスタンダードなものはその頃に出揃ってからあまり変わっていない。一年を通してやるべきことも出揃い、近現代社会+インターネットが、プラトー状態(努力をしても成長が止まってしまう状態)までいったのが、2000年代末ぐらいだと思います。今日的生活のフォーマットがそこでできた。

情報社会も、今日はもうやり過ぎのところに入っていると思っています。SNSも、爛熟しすぎだと思うんです。

柴田:
そうは言っても、情報化は進んでいってしまう中で、我々企業は、人々の可能性を拡げていくために、いろんな選択肢を用意しようと思っているのですが...

千葉さん:
生活の質ということで言えば、拡げなくて、維持だけでいいんじゃないですか?僕はもう、余計なことをしないで、インフラ企業はインフラに注力してくれ!と思うんです。環境やエネルギー、リスクの問題に注力すべきであって、日常生活に関しても何かできるんじゃないかと管理意識みたいなものを持ち込んできて、インフラ管理みたいに日常を管理するようになったら、たまったもんじゃないわけですよ。だから、余計なことを考えないで欲しいんです。

その施策は人を尊重しているかを問う

柴田:
なるほど(苦笑)。維持という方向をめざしたときに、企業としては選択肢をもうちょっと絞る中で、ビッグデータを使って「あなたに合ったもの」を示したり、もしくは最近注目されている“ナッジ”を使うことがあります。データを使って選択肢を開いたり絞ったりするところを、企業としてどういう態度で取り組んでいけばいいのか、ご意見を伺えたらなと。

千葉さん:
ナッジというのは、人々はそれぞれ勝手に生きているのだけど、ある種の規範性に向けて人々を誘導していくということですよね。リバタリアンパターナリズムと言っているけれど、僕はこれがパターナリズムそのものだと考えています。「別に強制はしませんよ」と言いながら喫煙所を減らして、徐々に環境管理的な形でタバコを吸わないように誘導する。はっきりこうしろとは言わないけれど、何らかの認知的トラップを仕掛けることによって人々をそっちに向けていくという管理的な発想です。

そういう状況の中で、いかに好きに生きるか?設計されてしまった環境や水路からどうやって外れるか?ということを、すごく真剣に考えなきゃいけなくなっています。誰かが見えないところから自分をコントロールしてくる可能性があるわけだから、すごく警戒心を持つし、慎重になりますよね。こういうことが続くと、社会に不信感を持つことに繋がるのではないかと思います。

木継さん:
ナッジを目的に対して適用するのか、手段に対して適用するのかという違いは考えられるでしょうか。たとえば、手段に対して適用した例としてよく引き合いに出されるのが、小便器の中にハエが止まっている。すると、ハエに向かって放尿してしまう。それによって生まれる、掃除の大変さが軽減されることや、トイレが使いやすくなるといったような社会益があると。

千葉さん:
その例ですが、トイレなんて多少汚くてもいいんですよ!(笑)

木継さん川原さん柴田
(笑)

画像: 人の行動を後押しする「ナッジ」についての議論が白熱。

人の行動を後押しする「ナッジ」についての議論が白熱。

千葉さん:
あともう一つ思うのは、たとえばトイレにハエの絵が描いてあって、そこに狙って打ちたくなる、狙って打つと飛び散らないから綺麗になる、というときに、僕という人間を馬鹿にされている感じがするわけです。

これは、社会全体において人間の尊厳に対する見積もりを下げますよね。「人間って、所詮そういうことで誘導されますよね?」という人間観が、社会に蔓延するので。これは、人を尊重しないような世の中に帰結するのではないかという懸念を持っています。

木継さん:
いまの話はアーキテクチャをどうするかという考え方につながりますね。アーキテクチャというのは人々の行動をコントロールすることができるものです。制限されたアーキテクチャの中でしか自由が見いだせないといった状況は、良いのか悪いのか。私もそれは良くないと思います。自分が自由だと思っても、巧妙に裏側で設計された範囲の中での自由ですから。

千葉さん:
土俵自体が作られていますよね。

木継さん:
アーキテクチャの作り方において、どの程度人の行動を制限して、どの程度余白をつくるのか。そこが重要で、インフラの設計にも繋がってくる話だと思います。

環境問題を儀式化させてはいけない

柴田:
いままでの話にも共感する一方で、いまのままだと地球環境が大変なことになる、そこに向けて行動を変えていかなきゃいけないという議論がありますが、そこにはどうアプローチしていったら良いんでしょう?

千葉さん:
環境に対してどうアプローチするかというのは非常に難しい問題です。しかし、企業がそこにどうアプローチすべきかということと、トイレを綺麗にするためのナッジのようなことは別次元であるはずが、緩く繋がってしまっている。それで、大きな意味での管理欲望みたいなものがあちこちに出ているように思うんです。企業が環境問題に真剣に取り組もうと思ったら、企業活動全体を反省せざるを得ないというのがまず1つある。強固なマルクス主義者は、資本主義をいままでのように運営していくことはもう無理だから、とにかく減速させて、何らかの別の経済のあり方に持っていくしかない、と言っています。でも、これはどこの企業も研究者も答えを出せていない問題で、態度を決められていないところだと思います。

だから、企業が今後資本主義に対してどう取り組むか、という大きな話になる。生活に対するデザインワーク的な取り組みによってどうこうできる話ではない。環境負荷が低いシステム開発をいかに行うのか?ということであって、応用的に人々の生活にどう働きかけていくかというのは、さっきの繰り返しになりますが、「余計なことをしなくて良い、本業のエネルギー削減をしっかりやってください」としか言いようがない。

柴田:
人々の生活への応用的な働きかけが、管理欲望のようなものを浸透させてしまう、と?

千葉さん:
そうです。まずインフラのことを徹底的に考えていただきたいです。

川原さん:
話は変わりますが、私は大学時代にベジタリアンの行動を広める活動をしていました。いろんな情報を提供したりしていたのですが、食生活を変える人はほとんどいなくて、結果は大して出せませんでした。その時に感じたのが、企業の力を活用するということでした。環境問題に対処するためには人の生活を変えないといけないし、人の生活を変えるのであれば企業が何かをすることが必要なのではないかと思ったんです。そういう意味では、ナッジも悪くないのではないかと思っていたのですが…

千葉さん:
でも、特定の価値観を企業の力でプロパガンダしようとすることには反対です。ある種の合理性に基づいている価値観だとしても、人間は必ずしも合理的に生きていないし、合理性はある程度必要とはいえ、それだけが人間の尊厳ではない。企業が「環境への意識」と言ったって、環境問題は環境活動では解決できないと思います。これは資本主義の問題です。肉を食べない方がいいとか、無駄なゴミを出さないようにするとか、そういう心がけの話じゃないと思うんです。もっと巨大な、資本主義という地球を動かしてきたロジックをどう考えるかという話です。

木継さん:
エコバッグを普及させるような活動が、問題の複雑性を覆い隠してしまっているのかもしれませんね。そうだとすると、そこは企業が改善できるポイントかもしれません。

千葉さん:
そうですね。ワンアイテムで何かが動くような幻想が膨らんでいくと、人間の行動はすぐ儀礼になっていくんです。ここが深い意味で人間の非合理性を考えるポイントです。人間は秩序をつくるために儀礼を行っている。先ほど、根本的には無根拠を背後に隠しているような決定を、儀礼によってかろうじて納得しているのが人間であり、そこを見ている、つまり非合理性と合理性のインターフェイスを見ているのが文系だ、というような話をしたわけですが、ここで問題になるのは儀礼の両義性です。たとえば、無駄なプラスチックを排出しないということに科学的な合理性があるとしても、エコバッグを使うことが儀礼化する。その儀礼自体がフェティッシュ的になって、エコバッグを使う派か使わない派かといった宗教対立のようなものが生じます。何が本当に大事かを考えることを途中からやめて、儀礼の空回りになってしまうんです。そこが重要で、企業はそういう儀礼化のトリガーを引く可能性が非常に高いから、気を付けなければいけないと思います。儀礼がなければ、人は無根拠の闇に落ち込んでしまう。だがまた、儀礼だけで空回りするようなことにもなる。儀礼と、それを崩すような思考のバランスが難しいんです。

柴田:
企業や行政は、そういう物をつくることで環境への意識を広げていこうとしていると思うのですが、そこにとどまらずに、物事が違う様相を呈してきてしまうということでしょうか。

千葉さん:
感覚的に言いますが、その啓発活動の3割は意味があるかもしれないけれど、7割はただの儀礼になると思います。3割の人は、ビニール袋を使わないことから何かを考えようと思うかもしれないとしても、残り7割の人は「ビニール袋をもらわなければいいんだ」と考えるだけだと思いますよ。

画像: 環境問題の解決に必要な取り組みはデザインの範疇にあるか?と問うのは、インフォバーンでデザインを担うお二人。

環境問題の解決に必要な取り組みはデザインの範疇にあるか?と問うのは、インフォバーンでデザインを担うお二人。

次回は、デジタルが生み出す新たな人の繋がり方、企業と地域との関係の築き方、更にはこれからの日常生活を支える社会システムとウェルビーイングについてお聞きします。

画像1: [Vol.2] “知らない”という自由を尊重できるか│哲学者 千葉雅也さんと読み解く社会システムとウェルビーイング

千葉雅也
立命館大学大学院 先端総合学術研究科 教授

1978年、栃木県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。哲学者、作家。『動きすぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』で紀伊國屋書店じんぶん大賞2013、表象文化論学会賞を受賞。2019年、初の小説『デッドライン』で野間文芸新人賞を、2021年「マジックミラー」で川端康成文学賞を受賞。2023年、『現代思想入門』で新書大賞を受賞。その他の著書に『勉強の哲学——来たるべきバカのために』『意味がない無意味』『アメリカ紀行』『ツイッター哲学——別のしかたで』『オーバーヒート』など。

画像2: [Vol.2] “知らない”という自由を尊重できるか│哲学者 千葉雅也さんと読み解く社会システムとウェルビーイング

木継 則幸
株式会社インフォバーン
フェロー Co-Founder

コミュニケーションデザイン領域を主軸にアートディレクターとして活動後、現在は事業開発及びブランドコミュニケーションにおけるコンセプトメイクからクリエイティブディレクション、エクスペリエンスデザインまで一貫したプロセスデザインを通じ、多様なセクターの価値創出を支援。NY ADC Award、文化庁メディア芸術祭等受賞多数。SFMoMA、Milano Salone、Tokyo Design Week等国内外で作品発表。サンフランシスコ近代美術館にパーマネントコレクションとして作品所蔵。

画像3: [Vol.2] “知らない”という自由を尊重できるか│哲学者 千葉雅也さんと読み解く社会システムとウェルビーイング

川原 光生
株式会社インフォバーン IDL(INFOBAHN DESIGN LAB.)部門
デザインリサーチャー

京都大学経済学部にて文化を対象とするデザインの方法論を学び、2021年より現職。電機・自動車・不動産管理等の領域で、事業開発のための定性調査・分析を支援。インタビュー、エスノグラフィ、トランジションデザインのためのリサーチ等に取り組む。

画像4: [Vol.2] “知らない”という自由を尊重できるか│哲学者 千葉雅也さんと読み解く社会システムとウェルビーイング

柴田 吉隆
研究開発グループ デジタルサービス研究統括本部 社会イノベーション協創センタ サービス&ビジョンデザイン部 主管デザイナー(Chief Designer)

公共分野のプロダクトデザイン、デジタルサイネージやICカードを用いたサービス開発を担当後、2000年代後半より、顧客経験に着目したシステム開発手法の立上げ、サービスデザインに関する方法論研究と日立グループ内への普及に従事。現在は、これからのデザインの役割を「未来の社会について、ひとりひとりが意見を持ち、議論をする」ことを促すものとして、ビジョンデザインを中心に活動している。

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