[Vol.1]マスプロダクトの価値を問い直す
[Vol.2] コンヴィヴィアリティのための道具とは
[Vol.3]マスプロダクトの余白が、「ともに生きる喜び」を可能にする
コンヴィヴィアリティのための道具とは
福丸:
ここからは、イヴァン・イリイチの提唱した、人と共に生きる「コンヴィヴィアリティのための道具」の話を進めていきたいと思います。まず、コンヴィヴィアリティとはどういうことなのでしょうか。
緒方さん:
はい。コンヴィヴィアルは、com=共に、vivial=生きる、で、一言でいえば「共に生きる」という意味の言葉です。イリイチは著書『コンヴィヴィアリティのための道具』の中で、未来の道具について「人間が人間の本来性を損なうことなく、他者や自然との関係性の中でその自由を享受し、創造性を最大限発揮しながら共に生きるためのものでなければならない」と指摘し、それを「コンヴィヴィアル」という言葉で表現しました。
福丸:
日常ではあまり聞きませんが、印象的な言葉ですね。
緒方さん:
「コンヴィヴィアリティ」という言葉を聞いたときに、これからはまさに「ともに生きる」ということが大事になってくるなと感じたんです。「共生」というと少し相互依存的なニュアンスがあるので、『コンヴィヴィアリティのための道具』では、お互いが自立しつつともに生きているニュアンスを含む「自立共生」という言葉で訳されています。
また、辞書でconvivialと引くと、「わいわいした」「宴会気分の」という訳語が出てくるんです。そのような、人と人が集まってにぎわう意味を含んでいることも面白いと思っています。いま、「カーム(静かな)テクノロジー」という言葉があります。テクノロジーがどんどん環境に溶けていき、意識されないものになっていくという意味なんですが、それとは対照的なイメージですね。
「過剰な計画」がもたらすもの
福丸:
イリイチは著書の中で、道具が行き過ぎているかどうかを見極めるための観点をいくつか挙げていますが、その中で、私たちは「過剰な計画」に注目しました。緒方さんの言葉をお借りすると、人の創造性や主体性を奪い、思考を停止させるものであるということですが、もう少し詳しくお話いただけますか。
緒方さん:
計画というのはとても効率がいいんです。計画する人と実行する人が分業することで、効率はすごく上がります。しかし、それによって新しい視点が生まれる余地が失われてしまったり、思考停止が起きたりしてしまいます。昔はそれでも良かったかもしれませんが、変化の著しい現代には、もう少しそれぞれが考えたり、できることがあるという方向に向かっていけないだろうかと思っています。
以前、元陸上競技選手の為末大さんのお話を伺ったのですが、コーチの言うことを聞いて、自分では何も考えずにトレーニングした方が記録は確実に伸びるんだそうです。為末さんは自分でとことん考えるタイプだったので試行錯誤で効率は悪かったそうですが、結果的に世界と戦えるようなアスリートになりました。一方で、コーチが言う通りにやり続けていたけれど、アスリートを辞めた後に、「自分は何もできない」と深い挫折を感じた人もいたそうです。それを聞いて、アスリートの世界にも「過剰な計画」があるんだなと思いました。
福丸:
なるほど。私たちも、プロダクトが自分たちで考えたり、行動したりすることを止めさせるような道具になってしまうのは好ましくないと思っています。少し異なる例えかもしれませんが、私の知り合いが大きな冷蔵庫を買ったら買い置きの定番食材が増え、料理のレパートリーが単純化してしまった、と話していたことがありました。これは、二つ目の分水嶺を少し超えてしまっているかもしれませんね。
緒方さん:
なるほど。その反面、毎日スーパーに買い物に行くのが良いことか、という問題も出てきますよね。移動のために使用するガソリンのことは考えなくていいのか、とか。
福丸:
そうですね。大きな冷蔵庫を一概に否定する話ではなく、便利さは求めつつも環境負荷は気になるし、自分なりの生活を作る楽しさも捨てがたい、人の裏腹な気持ちがあります。
緒方さん:
そこも、ちょうどいいバランスを探っていく必要があるんでしょうね。思考停止せずに、このプロダクトの「ちょうどいい」とはどういうことなのか、常に考えながらつくることが大切なのではないでしょうか。
ユーザーを信頼するプロダクトのエコシステム
福丸:
現在、IoT製品などプロダクトとサービスが相互に関わり価値を成すことが多くなり、複雑な体験をカスタマージャーニーとして描いてからそれに従いモノやサービスを作るというプロセスが主流ですが、ときにやり過ぎていないかと不安になることがあります。デザイナーは自分たちで設計できると思い過ぎず、もっとユーザーに委ねてもいいんじゃないかと思うのですが、緒方さんはどう思われますか。
緒方さん:
本当にそうだと思います。あとはやはり、そういったある意味不完全なプロダクトを支えるエコシステムをいかに育むかという問題があると思います。モノだけデザインするのではなく、どういうふうに売っていくのか、というところまで含めて考えていくことが大事だと思うんです。マスプロダクトになるポテンシャルがあるけれどすごく小さく始めるとか、それまで単なるユーザーだった人と、「一緒に作りましょう」と協創していくとか。
デザイナーって、作ったものを良いと言ってもらえたり、喜んでもらえたりすることが強いモチベーションになっているところがあると思うんです。「一緒に作りましょう」というとき、あれを、ユーザーの人にも味わってもらえたらいいのに、と思います。
福丸:
ああ、それはいいですね。作り手としての喜びを、そのプロダクトを喜んでくれた人と分かち合うというのは、まさにともに生きるということかもしれませんね。
道具は人をエンカレッジできるか
森:
先ほどの為末さんの話にもありましたが、一方で僕は、コーチや先生のような人の言葉や考えに反抗できる人は、少ないのではと思っています。いま、自分がやりたいことすら分からない、という声も良く耳にします。道具はそういう人たちに、作ることや、自分で考えることの楽しさや意義を伝えることができると思いますか。
緒方さん:
面白いですね。視点としてはコーチングに近いかもしれません。自分では気づかないことを、どうやって引き出していくか。それをプロダクトとしてどんな風にやっていけるのか、考えてみても面白いかもしれません。
福丸:
マスプロダクトでいうと、ユーザー自身が修理できるようにすることが、コーチングに近いかもしれないですね。たとえばファブラボのように気軽に工作ができる場所で、製品を分解してみたり、3Dプリンタを使って修理部品を作ってみたりすることが、そのきっかけになるかもしれません。修理したいという切実な問題からモノとの関わりを深めていくみたいな。
緒方さん:
僕は長野県の御代田に移住していて、そこで3Dプリンタを使ったワークショップをやっています。そこでは、3Dプリンタに初めて触る人も「すごいですね!」と面白がってくれています。道具に関心がある人は確実にいると思いますので、どう届けるかを考えていく必要があるのではないでしょうか。
福丸:
道具だけで実現されるものもなく、人間同士が関わりながら、みんなで考えて、力をつけていくことが大事なんでしょうね。
次回予告
マスプロダクトの社会的な価値として人間本来の主体性が発揮できるものになっていることが重視される中で、いま、ユーザーとの関係性にも変化が期待されています。Vol.3では、次代のマスプロダクトに求められる性質やユーザーとの関係性について、引き続き緒方さんとともに展望を語り合います。
緒方壽人
Takram
デザインエンジニア/ディレクター
ソフトウェア、ハードウェアを問わず、デザイン、エンジニアリング、アート、サイエンスまで幅広く領域横断的な活動を行うデザインエンジニア。東京大学工学部卒業後、国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)、LEADING EDGE DESIGNを経て、ディレクターとしてTakramに参加。主なプロジェクトとして、「HAKUTO」月面探査ローバーの意匠コンセプト立案とスタイリング、NHK Eテレ「ミミクリーズ」のアートディレクション、紙とデジタルメディアを融合させたON THE FLYシステムの開発、21_21 DESIGN SIGHT「アスリート展」展覧会ディレクターなど。2004年グッドデザイン賞、2005年ドイツiFデザイン賞、2012年文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品など受賞多数。2015年よりグッドデザイン賞審査員を務める。
福丸 諒
日立製作所 研究開発グループ
デジタルサービス研究統括本部 デザインセンタ UXデザイン部
主任デザイナー
日立製作所入社後、鉄道情報サービスUI/UX設計を担当。2017年から未来洞察手法の研究と実践により中長期的な事業機会探索を行うビジョンデザインを推進。英国日立ヨーロッパ駐在を経て、現職。
森 真柊
日立製作所 研究開発グループ
デジタルサービス研究統括本部 デザインセンタ UXデザイン部
2023年に日立製作所に入社。プロダクトデザインの新領域探索と、社外向けDXプロジェクトのUI・UXデザインに従事。
関連リンク
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