[Vol.1] AIが問い直す「優秀な人財」の定義
[Vol.2] AIが持てない「物語を感じる力」
[Vol.3] 自分の「既成概念」を壊す旅へ

「昔は論文を送るのも郵便だったので、今よりも自分の時間が持ちやすかった」と振り返る池谷さん
テクノロジーが時間や喜びを奪う?
池谷さん:
テクノロジーって、人を楽にしないんですよね。Eメールが出てきたとき、便利になると思いましたが、返信サイクルが早くなってむしろ追われる一方になりました。
小池:
オンライン会議もそうですよね。
池谷さん:
昔は「今日は出張だから」と教授会を欠席できました。でも今は、海外にいても、夜中の2時にオンラインで出席しなきゃいけない。便利になったのか、不便になったのか、よくわかりません。テクノロジーが時間を与えてくれるようで、実は奪っているという面がありますね。
小池:
私たち研究開発グループでも、AIを活用することで研究開発の効率は向上していますが、その分だけ求められる水準も上がるので、結局、楽になったという実感はあまり得られていません。
池谷さん:
そうですね。生成AIの回答レベルくらいまで自分を鍛えておかなければいけなくなった。AIのアウトプットを正しく評価できる判断力がないと、取捨選択ができないですから。自分の脳のフィルターを通して何かを出す以上、自分の中に価値基準を持っていることが大切です。
小池:
論文を書くときに、全体のストーリーや論理構成を考える過程が重要で、時間もかかります。その部分をAIに委ねてしまうと、次の研究テーマを生み出す発想力も、新しいことを発見したときの喜びも、いつのまにか失ってしまうのではないかと懸念します。
池谷さん:
学生のレポートも、人をハッとさせられる観点が含まれているかどうかが重要です。それを適切に判断するには、普段から考え続けて、見聞を広げて、感受性を磨いておく必要がある。だから、学生は「AIが出てきてからレポートの作成が大変になった」と嘆いているんですが、それは当たっていると思います。
小池:
結局、自分の脳に蓄えられた経験をもとに、AIの回答を取捨選択するわけですからね。どのように、脳の中を自分らしい状態にしておくか、というのが重要なのだと思います。

「経験が違うと脳の発火点も違ってくるはず」と語る小池
「バイブコーディング」という新しい生きがい
池谷さん:
「テクノロジーは人を楽にしない」と言いつつ、新しいテクノロジーが出てくると、新しい生きがいが見つかるような気もしています。
小池:
確かに、そういう面もありますね。
池谷さん:
私は、小さいころからプログラミングが大好きなんですが、去年くらいからバイブコーディング(生成AIと会話しながらプログラムを開発する手法)にすっかりはまってしまいました。プログラマーたちが口をそろえて、「バイブコーディングが面白くてしょうがない」と言っているんです。
小池:
どこに一番惹かれますか?
池谷さん:
コンピューターと会話している感じ、ですかね。生成AIとずっと壁打ちしていても、全然飽きないんです。
小池:
アディクション(依存症)のようなものでしょうか。
池谷さん:
完全にアディクションですね。でも、アディクションって、その人の生きがいにつながっている部分がありますよね。夢中になれるという意味では、これも立派な生きがいだと思うんです。しかも、プログラミンへの夢中は、これ自体が生産的な行為にもなっている。
小池:
これまで一部の人だけの特権だった、プログラミングを楽しむという体験が、AIによって誰にでも開かれてきていますよね。
池谷さん:
そう思います。プログラミングが苦手だった人でも、生成AIのおかげでプログラミングができるようになっている。理系の研究者の世界に、文系的な感性を持つ人がどんどん入っていける余地も広がっていくでしょう。むしろ歓迎されている。異なる価値観を持つ脳の価値があがっている。でも、バイブコーティングという生きがいについて、1年前はまだ気づいていなかった。
小池:
1年前に想定しなかったことが実現しているほど、変化のスピードが速いわけですね。
池谷さん:
そうなんですよ。普通の日常会話のために、誰もが生成AIを使うようになるという状態も、少し前まで予想できなかった。日常会話といえば、一人暮らしのお年寄りが毎日AIと話していると、会話パターンの微妙な変化から認知症の前兆を人間よりも早く検知できる可能性があります。こういう使い方が、これからどんどん広がっていくんだと思います。

「人間の脳で生活している以上、必ず生きがいを見つけてくる。そういう生き物」と話す池谷さん
異分野の交流がもたらす刺激
小池:
日立の研究開発グループでは、理系・文系の垣根を越えて研究者が議論を交わす場を大切にしています。例えば、日立東大ラボ、日立京大ラボでは、社会学の先生と一緒に、環境・ウェルビーイング・経済成長が調和した「ハーモナイズドソサエティ」の実現に向けて議論を深めています。生成AIをはじめとした先端技術の動向を踏まえ「社会がどうあるべきか」というビジョンを描くには、さまざまな分野の視点を取り入れることが不可欠だと思います。
池谷さん:
確かに文系・理系の枠を超えて「社会をどう設計するか」を考える場が必要ですね。分断を放置していると、戦争や紛争のような分かりやすい崩壊ではありませんが、社会システムの崩壊が一部で起きてくると思いますから。新しいテクノロジーを迎え入れるための準備が必要ですね。
小池:
異なる考え方を持つ人たちが「社会がどうあるべきか」について議論することは、それ自体が大切であると同時に、人間の脳にとっても良い刺激になりますよね。理系と文系は分かれがちですが、だからこそ、交流するのはとても良いことではないかと思います。
池谷さん:
私も、脳の使い方が違う人たちが会話する機会は、あったほうが楽しいと思います。結局のところ、私が好きなのは何なのかと考えてみると、自分の中に知らないうちに持っている既成の価値観を壊されるのが好きなんですよ。だから、私は旅行に行くのが趣味なんです。旅行をすると、その土地の独特な考え方とか、長く育まれた文化とか、自分が持っている価値観とは全然違う価値観で動く世界を生で見ることができる。自分の常識が通用しないというのが気持ちいいんですよね。
小池:
実は私も旅行が好きで、ウズベキスタン、キルギス、ジョージア、シリア、ヨルダンなど今では紛争で渡航することが難しくなっている国も含め、50か国以上訪れています。これだけ瞬時に情報が共有される状況になっても、その土地の歴史に基づき特有の文化があり、それが、人々の考え方、感性に影響を与えています。新しいものの見方に接すると新たな気づきが得られます。今度は東欧のアルバニアに行く予定です。
池谷さん:
アルバニアといえば、国境にあるオフリド湖が今でも印象に残っています。あの景色は今までに見たことがないものでした。中央アジアのキルギスに行ったときは、野生のチューリップを見たくて、あちこち聞いて回りました。
小池:
まさに、既成の価値観を壊す旅ですね。
池谷さん:
AIが便利になっても、自分の足で歩いて五感で味わう体験には勝てない。それもまた、感性を育てるための大切な時間だと思っています。それこそが、AI時代を豊かに生きる知恵なのかもしれません。

AI時代の生きがいを問い直した対談。それぞれの意見を交換した
取材協力/VINOMONDO
![画像1: [Vol.3] 自分の「既成概念」を壊す旅へ|AI時代に問う『感性』とは何か](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2026/06/29/a50cada207d7cf71b59adabd9ce2ad3508631f2f.jpg)
池谷 裕二(いけがや・ゆうじ)
東京大学薬学部教授
1970年静岡県藤枝市生まれ。薬学博士。2002〜2005年のコロンビア大学(米ニューヨーク)留学をはさみ、2014年より現職。専門分野は神経生理学で、脳の健康について探究している。また、2018年よりERATO 脳AI融合プロジェクトの代表を務め、AIチップの脳移植によって新たな知能の開拓を目指している。文部科学大臣表彰 若手科学者賞(2008年)、日本学術振興会賞(2013年)、日本学士院学術奨励賞(2013年)などを受賞。『夢を叶えるために脳はある』(講談社)で小林秀雄賞受賞(2024年)。著書に『生成AIと脳』など多数。
![画像2: [Vol.3] 自分の「既成概念」を壊す旅へ|AI時代に問う『感性』とは何か](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2026/06/29/a64e1d729b48a94ce65e5b4388a99ba5d4ab50e1.jpg)
小池 麻子(こいけ・あさこ)
日立製作所 理事 研究開発グループ 技術戦略室 室長
博士(理学)。1994年京都大学大学院理学研究科修士課程修了後、日立製作所入社。中央研究所にて医学生物系学知識処理技術・ゲノム解析技術の開発と実用化に従事後、医用系診断・治療機器の技術開発と製品化に従事。公共システム事業部、未来投資本部、ヘルスケア事業本部CTOを経て、2024年より現職にて研究開発の戦略立案に従事。アカデミア活動として、2003〜2005年東京大学大学院情報理工学系研究科客員助教授、2014〜2018年東北大学客員教授。米国臨床腫瘍学会会員。
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