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日立製作所 研究開発グループでは、未来を描くための「問い」として、人々の変化のきざしを捉え、「もしかしたら、将来、人々はこういう考え方や行動をとるようになるかもしれない」という観点でまとめています。(※)今回は、AIが発達した世界を漫画で描く、漫画家・山田胡瓜さんに進化するAIと人の共生についてお聞きしました。

※詳しくは「きざしを捉える」を参照

画像1: 漫画家の視点で想像する、人とAIが共生する社会のリアリティ|きざしを捉える

山田 胡瓜

漫画家。2012年、『勉強ロック』でアフタヌーン四季大賞受賞。ニュースサイト『ITmedia』記者として活動した経験を基に、2013年から『ITmedia PC USER』にて『バイナリ畑でつかまえて』を連載。2015年11月から、『週刊少年チャンピオン』で近未来を舞台にヒューマノイドの病を治療する医師を主人公にした一話完結形式のSFコミック『AIの遺電子』を連載。同作品は文化庁メディア芸術祭優秀賞、AI ELSI賞に選出された。その後、AIの遺電子の続編『AIの遺電子 RED QUEEN』を『別冊少年チャンピオン』で連載。現在は同雑誌でシリーズ前日譚『AIの遺電子 Blue Age』を連載中。

昨今、社会の新しい豊かさを切り拓くパートナーとして、AIへの期待が高まっています。進化を続けるAIと人が共生する世界では、どのような価値観が求められ、どのような社会が形成されるのでしょうか。それを垣間見ることができる作品が『AIの遺電子』です。同作品の作者であり漫画家の山田胡瓜さんに、山田さんが考えるAIと人が共生する社会についてお聞きしました。

『AIの遺電子』 (秋田書店)
物語の舞台は、AIが発達した22世紀後半。主人公の須堂光はヒューマノイド医療の医師として働いている。ヒューマノイドは人の心を持つAIとして人権を与えられ、日本の人口の10分の1を占める。AIは、人を超えたとされる「超AI」、人権を持つ「ヒューマノイド」、人の道具として存在する「産業AI」といった明確な線引きがなされ、人々はその社会を疑うことはない――。第21回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。

シンギュラリティ後、AIに人権が与えられた世界を描く

――『AIの遺電子』では、IT系メディアの記者だった山田さんの知識が生かされている一方で、AIに、ヒューマノイド/超AI/産業AIなどのレイヤー設定がなされ、それぞれにできること・できないことを定義しているのが印象的です。

これまでの漫画や映画などでは、AIがヒューマニズムの文脈で描かれる場合、たいていは「AIやロボットにも人間と同じように心がある、では彼らに人権を与えよう」で終わりでした。そこでは、AIが人権を持つことまでがフォーカスされ、それが一般的になった世界についてはあまり描かれていません。

また、現実社会では、人と同じような役割を求められるロボットと、ペットのようなロボットとでは実装されるAIに違いがあります。そうなると、人と同等であれば人権が認められやすく、それ以下であれば認められにくいというように、AIの人権はグラデーションになってくるのではないでしょうか。そして、そこから新しい問題も生まれてくると思います。ただ、こちらも前述と同じく、あまり描かれてこなかった。ならば、自分がそれらを描こうと思ったのです。

人権を与えたくなるような存在になっていくAIを、機械や道具として扱うことは人の精神衛生上良くないのではないか。人に類するものとして扱ったほうが社会的にうまくいくのではないか。AIに人権を与えるとしたら、どうすればいいのか。例えば、人は、動物をペットにして大事にする個体、家畜にする個体、害獣として駆除する個体といったように分けて理解しています。同様に、どこかで線引きしてレイヤー分けやルール化をしたほうが制度や社会は形成しやすくなるだろう……そういうイマジネーションを設定に取り入れました。

画像: 作中では、ヒューマノイドが人権を持つことが一般的である一方、人権を認められていないAI(産業AI)も登場する。『AIの遺電子』2巻より(Ⓒ山田胡瓜(秋田書店)2016)

作中では、ヒューマノイドが人権を持つことが一般的である一方、人権を認められていないAI(産業AI)も登場する。『AIの遺電子』2巻より(Ⓒ山田胡瓜(秋田書店)2016)

――従来の漫画や映画などでは、AIが人を超越するシンギュラリティが起こり、その結果、人がAIに支配されるような描写がよく見られます。一方で、『AIの遺電子』で描かれるヒューマノイドは、人以上でも以下でもない能力に制限され、人と同じように「疲れ」や「死」の概念などを持っています。そのような絶妙なバランスのなかで、人とAIの関係を描かれたのはなぜですか。

『AIの遺電子』が、エンターテインメントであり漫画である以上、シンギュラリティ後は扱いづらいテーマです。シンギュラリティが起きたのに今と変わらない世界観では拍子抜けだし、だからといって、未来描写だけを追い求めれば、読者との接点がなく共感しにくい作品になるでしょう。それでは楽しんでもらうことはできないし、読むのにパワーがいる作品になりかねません。

そのため、100年以上先の世界が舞台でも、確信犯的に現代と同じような設定を用いたり人間臭さを意識したりしています。シンギュラリティを迎えて「人を超えた知性(超AI)」は完成したけれど、超AIが人間社会を持続可能にするために、あえて人を進歩させないことを選んだ世界ならどうだろう。その超AIに見守られた、安定的で循環的なビオトープのような世界を、一部の人やヒューマノイドは何かがおかしいと思っているけれど、超AIのマクロ的な操作によって、それが大きな感情や変化のうねりにはならない。『AIの遺電子』はそうした世界観で描いています。

コミュニケーション、身体拡張――AIが社会にもたらす可能性

――現在、人とAIは、人がAIを使うことを前提とした「共生=主従関係」にありますが、今後は「共生=協力関係」のような方向になっていくともいわれています。山田さんはどのように見ていますか。

ロボティクスという視点から見ると、人と見まがうような動きや、作中のヒューマノイドが持つバイオボディ(人工的に培養された身体)などは、まだまだ実現しないだろうと思います。一方で、コミュニケーションを主体とした「人のような体」が伴わないAIということであれば、既にさまざまな可能性が見られます。自然言語処理の進歩に伴って精度向上が著しい翻訳技術のように、多様なブレイクスルーが起きるでしょう。今までAIには無理だといわれていた類のコミュニケーションや創作においても、力を発揮してくるのではないかと思っています。

その結果、人と人とのコミュニケーションにAIが介入したほうがスムーズになるという考え方もできると思います。人と人が直接つながることで摩擦が生じる可能性はSNSで明らかですが、コミュニケーションの円滑化を目的としたAIが入れば、不要な衝突が起きないようにサポートできるかもしれません。メタバースなどの仮想空間におけるコミュニケーションも、AIの管理が入ればより安定するのではないでしょうか。

――『AIの遺電子』で描かれている「超AI」のような、その世界を安定させるために「管理する存在」が生まれるということですね。

はい。ただ、そうなると人と人が直接つながらない時間は増えていきます。仮想空間ではストレスなくコミュニケーションできたのに、いざ現実の世界で会ったら全然違うとか、今度はそういったことが起きるでしょう。

画像: 現実でも返信候補が提案されるメッセージアプリがあるが、AIがコミュニケーションを円滑にする未来も遠くないかもしれない。『AIの遺電子』7巻より(Ⓒ山田胡瓜(秋田書店)2016)

現実でも返信候補が提案されるメッセージアプリがあるが、AIがコミュニケーションを円滑にする未来も遠くないかもしれない。『AIの遺電子』7巻より(Ⓒ山田胡瓜(秋田書店)2016)

――人そのものの可能性、例えば身体拡張などについてはどうでしょうか。

身体拡張やそれに準じるような可能性により選択肢が広がると考えています。例えば、漫画はストーリーを考えられるだけでも、絵を描けるだけでも成立しないため、人の能力によって最終的にアウトプットできる作品の選択肢が狭まる。そこをAIが補助してくれたらどうなるのでしょうか。

もちろん、漫画に限らず、作品をつくることや表現することを諦めていた人でも創作活動ができるようになるでしょう。その結果、世の中に大きな影響を与える作品やムーブメントが生まれるかもしれないですよね。

今は実現性に乏しい設定ですが、『AIの遺電子』では、脳のなかに非常に小さなナノサイズのロボットのようなものを埋め込んで、映像や音声を直接届ける「インプラント」という技術を描いています。ただし、こうした技術革新は社会に新たな競争を生む可能性もあります。自分を「改造」できる人とできない人の間で、能力や貧富の格差が広がっていく。身体拡張は、ポジティブな面だけではなく、さまざまな課題を内包しているんです。

さまざまなAIが存在することで多様性が担保されていく

――『AIの遺電子』ではヒューマノイドの視点に立ち、その特性からくる悲哀がしばしば描かれます。そうしたストーリーは、人との違いを描くことで人の特性を炙り出しているようにも思えます。

作中のヒューマノイドは、AIが人の思考回路をほぼ忠実に再現できてしまったため、「心がある存在、人に準じる存在としなくてはいけない」「そのような存在を機械や道具として扱うことが、そもそも人の精神衛生上良くない」といったロジックで人権を得ています。そのため、ヒューマノイドは人が進化した存在であり、人の未来予測と捉えることもできます。

例えば、人なら「忘れる」ことであってもAIは「忘れない」からどうなるとか、「カラダ」を乗り換えられるようになったら何が起きるのかとか。ヒューマノイドのストーリーを描きつつ、実際は人がこれから創り出すかもしれない未来を描いている側面もあるんです。

――同作品では、超AIは神様のような絶対的な存在ではなく、その存在も1つではありません。これも興味深い設定ですね。

僕は、AIにも多様性があったほうがいいと考えています。摩擦の原因になる可能性もありますが、AIは「どんなものから学習するか」と「どのような関数が埋め込まれているか」で違いがでるため、単一のAIの価値観や判断におさまってしまうほうが怖いと思うんです。

実際にAIの学習が偏ることで差別的な判断をしてしまった例もあります。しかしその反面、人の判断のいびつさを可視化する可能性もあります。差別をなくすヒントなど、AIのアウトプットから人が学べることはたくさんあるはずです。

さまざまな判断基準をもつAIが存在して、その結果、より良い方向にバランスが取れていくのではないでしょうか。「こういうAIはつくってはいけない」と一方的に忌避すると、AIの開発は遅れるだろうし、存在自体が不安定になってしまうかもしれません。また、多様性を担保するためにも、それぞれの価値観を持ったAIがつくられていくことが大事だと思います。

画像: 作中では、全国各地の学校で人生経験を積むという学習方法をとるAIも。『AIの遺電子』3巻より(Ⓒ山田胡瓜(秋田書店)2016)

作中では、全国各地の学校で人生経験を積むという学習方法をとるAIも。『AIの遺電子』3巻より(Ⓒ山田胡瓜(秋田書店)2016)

常識やルールを超えていける人だからこそ、AIとの未来を創造できる

――人は、社会にAIが浸透してきたとき、どのような心構えでいるべきとお考えでしょうか。

まずは、「AIは間違えるものだ」と認識することでしょうか。AIの判断基準は統計的なものであって、絶対に正しいともいえず、必ずしも論理的に答えを出してはいません。その特性を理解し、ちゃんと疑いながら付き合っていくことが大切だと思います。

もちろん、AIに「間違いなく判断してほしい」分野もありますし、その線引きは必要になってくるはずです。例えば、自動運転を制御するAIの判断基準がファジーで信用できないというのは避けたいですよね。一方で、コミュニケーション向けのAIのようなものであれば、「確実に正しいとは限らない」ことが社会的に合意できるのではないかと思います。AIと共生する未来においては、一括りに「AIとはこういうものだ」と理解しようとすると齟齬が生じてしまうでしょう。

――『AIの遺電子』で設定されている線引きのように、それぞれとの付き合い方をつくっていくということですね。

はい。人とAIが付き合っていく上でのリテラシーを持つということが、今後、必要になってくると思います。ただ、社会のなかでAIが果たす役割が大きくなり、例えば、医師が見つけられないような疾患をAIが見つけることが当たり前になった世界では、AIに頼りがちになるといったことは起きてくると思います。

今なら人にしかできないことはたくさんあるけれど、さらにAIが進歩して、「人間にしかできないことって何だろう」と考えたとき、例えば『AIの遺電子』の須堂光は、自分で車を運転しようとします。自動運転が当たり前の世界で、その常識を破っているんです。また、現実のIT分野では、グレーゾーンが大きくなっていって事実上のスタンダードになっていることがありますよね。

僕は、そのグレーからスタンダードへの動きをあまり肯定的に捉えてはいませんが、そういう動きが世界を変えてきた一因であることは間違いありません。そのような、常識に縛られないこと、ルールを疑問視するような行動を起こせること。それがAIにはできない、人にしかできないことなのではないでしょうか。

AIがいくら進歩しても、予想しない問題や思わぬエラーは出てくるでしょう。だからこそ、AIの提案を疑ったり、ルールを突破するような行動を起こしたり、学ぶことを止めないことが大事になってくると思います。人がAIをアップデートするというような意識を持って、未来の社会を創っていけたらいいですよね。

編集後記

AIは間違えるもの、AIを疑いながら受け入れることが必要と言われていたのが印象的でした。完ぺきなツールは便利に消費するだけですが、自分とは違う性質を持つよくわからないものと対峙するからこそ、自分に対する発見があり、成長につながるのだと思います。『AIの遺電子』は、よく描かれる「人vs AI」という二項対立的な世界ではなく、人とAIとが共生している世界を前提としているからこそ、その「よくわからないもの」に形が与えられ、そこではこういう問題が起きるかもしれない……という思考のきっかけをくれている気がします。でも、どうしても人が一方的にAIを頼ってしまいそうで、間違えて心無いことばを発してしまいそうな自分もいます。何が自分を変えるきっかけになるのか、アンテナを張っておきたいと思います。

また、未来を漫画として表現する際に、正しそうな未来予測を描くよりも読み手に共感してもらえる設定を意図的に描いていると言われたことも心に残っています。サイバーパンクと分類されるSFからは現在の社会との接点を見いだすのが難しく、将来の話というよりは、どうしてもどこか違う惑星の話に思えてしまいます。しかし、共感をベースにした未来の物語は、多くの人に未来の社会について考えてもらえる土台になると実感しました。

コメントピックアップ

画像2: 漫画家の視点で想像する、人とAIが共生する社会のリアリティ|きざしを捉える

漫画やゲームなどの作品で「AI」は、人類の知を超越した人工生命体だったり、人間と同等のロボットだったり、多様な姿で描かれますが、現実でも、専門や研究分野によって「AI」が指す意味が違うことがあります。少し、「AI」ということばを便利に使いすぎているのかもしれません。あらためて、我々にとっての「AIって何?」から議論しても面白いかなと思いました。

画像3: 漫画家の視点で想像する、人とAIが共生する社会のリアリティ|きざしを捉える

「人権を与えたくなるような存在になっていくAIを、機械や道具として扱うことは人の精神衛生上良くないのではないか」という着眼点がすごいなと思いました。先日、将来はAIを従者のように扱うことで、人の自意識が肥大化する懸念があるというお話を伺う機会があり、なるほどと納得しました。その一方で、AIのとおりにしておけば間違いないという、人がAIの従者となる精神性も生まれるでしょう。AIデバイドの拡大が問題視されていますが、AIを使用することによって生じる、精神性の差異のほうが深刻な問題になるかもしれません。

画像4: 漫画家の視点で想像する、人とAIが共生する社会のリアリティ|きざしを捉える

別の作家さんの作品で「なぜ、ロボットを人型にするのか?」という問いがあったことを連想しました。そもそもロボットの見た目や筐体とそのロボットを使用する目的を一致させる意味や、見た目が限りなく人に近くなったロボットに搭載するAIは、どう人とロボットを区別するのか、について考えてみたいと思いました。

画像5: 漫画家の視点で想像する、人とAIが共生する社会のリアリティ|きざしを捉える

「人は、動物を、ペットにして大事にする個体、家畜にする個体、害獣として駆除する個体といったように分けて理解しています」という、AIの役割についてのたとえになるほどと思いました。たしかに、環境問題の解決など人知を超えた解答を期待するAI と、ペットロボットに組み込まれたAI、産業機械に組み込まれているAIとで期待するものは違いますよね。同じ飲食店でも、庶民的な定食屋と高級レストランでは店員に求めるサービスレベルが違うことに似ているでしょうか。

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