[Vol.1]鮨屋では、なぜ客がテストされるのか
[Vol.2]新しい自己表現をするプロセスをデザインする
[Vol.3]闘争をどうデザインに取り込むか
サービスにおいて、客が自分の価値を問われる
さて、闘争があるのは高級なサービスだけと思われた方もいると思いますが、そうではありません。サービスは全て闘争であり、高級ではないサービスにおいても闘争の側面を必ず含みます。
いままでのサービスの理論は、主客分離を前提としてきました。主体というのはお客さんのことなので、お客さんが客体であるサービスを見て、その価値を評価するという枠組みになります。
ところが、サービスは価値協創であると考えると、お客さんも一緒にこのサービスを作っている存在です。自分がそこで一緒にサービスを作っているから、サービスの価値が問題になるということは、そこに含まれている自分の価値も必ず問題になる。つまりサービスにおいては自分の価値、自分がどういうことかが問われてしまうのです。
なので、価値協創である限り、全てのサービスにおいてお客さんは「自分がどういう人間か」ということを示さないといけません。たとえば本屋で本を買う行為は、店員さんに対して「自分はこの本を好きな人間である」という表現をしています。居酒屋で「とりあえずビール」というのは、「自分はビールが飲みたいわけじゃないけど、場の空気を読んでこれにしておきます。僕は気を遣えるんですよ」ということを示しています。
つまりその都度、自分がどういう人かを絡みとられてしまうのがサービスです。高級であろうがカジュアルであろうが、その場にふさわしい人かどうかが問われています。
店の価値を高めるために、必ず客を否定する
いま投影している画像は、日本にあるイタリア料理店のメニューです。イタリア語のメニューが並んでいて、一体どんな料理なのか分かりません。カジュアルなお店なのにわざわざお客さんが知らない言葉を使うのは「このお店はあなたの日常にあるようなものではなく、正統派のイタリアの料理を提供しますよ」というジェスチャーです。とてもカジュアルなお店ですが、お客さんを否定し、お客さんは背伸びをしないといけない、ということが起こってしまいます。
スターバックスがスモール、ミディアムと言わずに、ショート、トールと言わせるのと同じですね。さらに大きなサイズは、グランデやヴェンティとイタリア語になるので、みんな意味がわかっていません。価値協創である限り、すべてのサービスは客を否定する契機を含むことになります。
ちなみにこのイタリア料理のお店は矛盾したことをしていて、メニューの最初にJとかNとかアルファベットが書いてあります。読めなかったらアルファベットで注文できるようにしているんです。
主客分離をしてお客さんを喜ばせるということも、完全にないわけではないです。というのは、鮨屋で鮨を食べて鮨が美味しい、という主客分離をした主観的な価値もあります。ただ、それを単純に「美味しい」と表現した瞬間に「そんなにボキャブラリーが少ないのか」と問われている、ということにもなるんです。
それで、主客分離をしてお客さんを喜ばせる「人間中心設計」に対し、お客さんが自分の価値を問われ、主体が脱中心化することを「人間-脱-中心設計」と呼んでいます。
サービスデザインは、人間中心設計の正反対
サービスのデザインについてちょっと触れたいと思います。サービスデザインとは、「お客さんがどういう人になるのか」ということです。お客さんが新しい人になるプロセスをデザインすることがサービスデザインであるべきで、ニーズを満たすことではない、と考えた方が面白いんじゃないかと思います。
サービスデザインの本がたくさん出ていますが、たいていがヒューマンセンタードデザインであると書かれてます。これ自体は間違ってないんですが、もう少し考えた方がいいんじゃないかと思います。
ドナルド・ノーマンは1980年代から人間中心設計という言葉を考え、広めてきた人です。彼は「人間中心のデザインを実践している者にとっては、顧客のために働くということは、不満や混乱や無力感などから開放することで、顧客自身が支配し権限をもっていると感じさせることである」と書いています。つまり、お客さんが「自分がコントロールしている」という感覚をもち、フラストレーションを感じないということです。
彼はその次の文章でこう書いています。「販売員にとっては正反対が正しい」と。つまりお客さんとやりとりしているサービスの現場では、正反対だというのです。要するにサービスデザインっていうのは、人間中心設計の正反対なんだと言っています。
彼の例でいうとアパレルのディーゼルの店は暗くて見えないし、音楽がガンガンかかっていて居心地が悪い。だけどディーゼルの店はそれをデザインすることが大事、というような話ですけど、つまりサービスにおいては、やはり分かりやすく作るのではなく、分かりにくくしないと、ということです。
なぜかというと、人間中心設計の前提はやはり主客分離です。主体がデザインされたものを見て、それが使いやすいか使いにくいか。これは当然、使いやすい方がいいに決まっています。なのでフラストレーションを排して使いにくさとか分かりにくさを排除することが基本的に重要になってきます。ところがサービスは主客分離できないので、サービスは分かりにくくしないといけない、ということなんです。
だから、サービスが分かりにくいことには理由があるということです。京都の料理屋さんにかかっている掛け軸は読めないですね。読めないように作られてるわけですから、読めたらいけないんです。
ユーザーを実体化して固定化するのを避けて、ユーザーがどういう人になっていくのか、背伸びをしたり、承認されたりしてどうなっていくのか、この過程をデザインすることが重要じゃないかと提案しています。客をひとりの人として尊重するなら、相手に対する緊張感が生まれます。これこそが本当の人間中心とも言えるのではないでしょうか。
マクドナルドが成功したのは、世界観を作ったから
最後に「Kyoto Creative Assemblage」につながる話をしたいと思いますが、「サービスは闘争である」というのは実は射程の広い話で、全てのイノベーションにつながっています。
いま、歴史をつくるイノベーションを提唱していますが、マクドナルドを例に話しましょう。なぜマクドナルドかというと、マクドナルドには緊張感がないと考えられているからです。お客さんを否定するプロセスがあるようには見えません。
ところがいまから説明したいのは、いや実はそうじゃないということです。緊張感がないと思われているマクドナルドの価値が実は闘争から生まれているのだとしたら、世の中ありとあらゆるサービスをそう考えなければいけないということです。
マクドナルドの価値は何かというと、ジョージ・リッツアという社会学者は「マクドナル化した社会」で、マクドナルドには効率性、計算可能性があり、コントロールできるから成功したというようなことを説明しています。しかし、効率的などといった理由で、マクドナルドが時代の象徴になるでしょうか? マクドナルドは、ひとつの世界観を作ったのです。
マクドナルドは60年代に全米に浸透していきますが、当時の全米のティーンエイジャーにとって、前近代的ないままでの自分の生活に対する恥ずかしさを感じさせる一方で、近代的な新しい時代に足を一歩踏み入れる感覚を味わわせました。家庭ではお母さんが毎日素朴な料理を作り、みんなでお祈りして食べる生活でした。そして、周りの人々にはアフリカ系の方々への差別や女性蔑視の態度が見られました。60年代のティーンエイジャーのベビーブーマーにとって、マクドナルドに行くことは古い生活を否定し、新しい時代に一歩足を踏み入れる体験だったのです。それまでの自分が否定されている状態でありつつ、マクドナルドの世界観に同一化して、新しい自分を表現しているわけです。
この「自分を表現する」ということが価値になるということは、やはりイノベーションに共通すると考えます。鮨屋だけでもイタリアンだけでもなく、マクドナルドですらそれが重要だということです。
マクドナルドのような時代を画すイノベーションは、潜在ニーズを満たすだけでは生まれません。新しい時代を表現して世界観を作り、そこに人々を連れ出すことで、その人々が誰なのかが問われるような緊張感のあるデザインをしていかないといけないんじゃないかと思うんです。背景にある社会的な変化を理解した上で、新しい文化表現、新しい世界観をデザインしていきましょう、という趣旨で作ったのが、新しい世界観を作る力を導く「Kyoto Creative Assemblage」です。
次回は、闘争とデザインとの関わりや、対デジタルサービス、BtoBサービスにおける闘争について、より具体的にお話しいただきます。
山内 裕
京都大学経営管理大学院教授
「Kyoto Creative Assemblage」代表。カリフォルニア大学ロサンゼルス校にて経営学博士号取得。ゼロックス・パロアルト研究所研究員などを経て、2010年より京都大学経営管理大学院 。専門はサービス経営学、組織文化論など。レストランなどのサービスにおける顧客インタラクションをビデオに記録し分析するエスノメソドロジーを研究し、また文化的な視座からのデザインのアプローチを開発している。
関連リンク
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