将来の世代にも豊かな生態系を
西出聡悟:
今日は生物多様性と私たちの暮らしや文化のかかわりについてお話を伺いたいと思います。はじめに、ピアースさんのご専門である進化生態学について教えていただけますか?
ピアースさん:
進化生態学は、生物種が互いに、あるいは環境と相互に作用して、どのように進化してきたかを理解しようとする学問分野です。私は、何百万年にもわたる進化のプロセスのAIモデルを構築して、生態系の機能をより深く理解することをめざしています。人類が生態系を安全に利用して生物多様性を確実に維持し、将来の世代も豊かな生態系を享受できるようにするためです。
ポール・テイラー:
日立ヨーロッパR&Dセンターは、ICLと共同で持続可能性や地球に関するさまざまなトピックを横断的に研究しています。その中の一つが、ピアースさんと一緒に取り組んだ、生物多様性と生態系の機能に関する世界最大級のデータベースの構築というプロジェクトでしたね。
ピアースさん:
データベースには現在、24万件以上のデータポイントがあり、特定の生態系における種の数などが、生態系サービスにどのように影響するかを示しています。たとえば、気候変動対策としての大気中の炭素の吸収、治水対策、植物の生育を助ける花粉媒介者の提供などです。
森本義謙:
その成果を踏まえて、ICLは生物多様性と生態系機能に関する政策提言書を出しましたね。
ピアースさん:
はい。「単なる植林ではなく、多様な生態系回復を」という提言を発信しました。

生物多様性と生態系機能に関する政策提言書について説明するウィル・ピアースさん
日本の桜とイギリスの風物詩
西出:
ICLの提言は、森林を守ることにも触れていますね。植物が人々を引き寄せ、森林を守る活動に参加させることもできるということでした。そこで、日本人にとって非常に重要な花である「桜」を取り上げたいと思います。森本さんは、海外経験が豊富ですね。桜の受け止め方は国によって違っていますか?
森本:
これまでにアメリカ、フランス、イギリスで暮らしたことがありますが、やはり、文化の違いを感じます。桜は日本文化と深く結びついていますが、アメリカでは、そこまで文化的なつながりは感じられません。ただ、ワシントンDCの桜祭りは例外です。1912年に日本がアメリカに友好の証として桜を贈ったことに由来する大規模なイベントで、桜は両国の友好のシンボルになっています。フランスやイギリスについては、ピアースさんやテイラーさんのほうがよくご存じでしょう。公園には桜の木があって、春になるとピクニックを楽しむ人たちを見かけますが、日本の花見ほどの人出ではありません。
テイラー:
私の印象では、日本人にとっての桜は社会的イベントにも見えます。桜を見るために仕事を休むこともあるそうですね。
ピアースさん:
社会的イベントと言えば、イギリス人が今より農業と結びついていた時代は、メーデー(五月祭)が盛大でした。これから始まる農作業を祝い、豊かな収穫を祈る祭りです。日本の桜のように特定の種と結びついていたわけではありませんが。
テイラー:
特定の種という意味では、たとえば、カッコウですね。イギリス人はカッコウの鳴き声に春の訪れを感じたものです。もう一つ、私にとって象徴的な花はラッパ水仙です。厳しい冬が終わり、地面から黄色い花が飛び出してくると、「やった!もうすぐ暖かくなる」と嬉しくなります。ただ、ロンドンのような都会に住んでいると、カッコウの鳴き声やラッパ水仙に出会うチャンスは少ないかもしれません。

桜と文化の関係について語る森本義謙(左)とポール・テイラー
洪水から守ってくれた土手の桜
西出:
桜は美しいだけではありません。東京では300年ほど前から川沿いの土手に桜が植えられました。桜の花が咲くと、美しさに惹かれて人々が土手にやってきます。大勢の花見客が踏みしめることで、土手が一段と強化されたのです。
森本:
まるでボランティアの市民エンジニアのようですね。
西出:
そうなんです。だからこそ川に沿って桜を植えたのです。そして、この土手が私たちを洪水から守ってきました。
ピアースさん:
素晴らしいですね。私はテクノロジーが大好きなのですが、もしも新しい科学雑誌に「新種の治水システムが発明されて、少なくとも100年は持続し、摩耗したり損傷したりすると増殖して、周囲にある材料から自己組織化する」と書いてあったら、「何だって!? 誰かがナノテクノロジーか何かで作り出したのか?」と思うことでしょう。それが桜の木だとは、驚異的な生態系サービスですね。
西出:
桜が持つ側面の一つです。イギリスにも同様の事例はありますか?
ピアースさん:
イギリスにも昔から恐ろしい洪水がありました。人々を守ってくれたのは湿地帯です。湿地の葦が泥の中に根を張り、川の流れを遅くすることで、より多くの水を処理でき、水があまり広がらないのです。湿地の葦が景観や地形に合わせて成長し、洪水を最小限に抑えてくれるのも、驚くべき生態系サービスだと思います。さらに、湿地は鳥たちの生息地でもあります。
テイラー:
かつてはビーバーがダムを作り、湿地を作り出すのに役立っていました。イギリスでは今、野生のビーバーが再導入されているんですよ。
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イギリスでは、湿地帯が洪水を防ぐ機能を果たしてきた
現代に適した新しい生態系とは?
テイラー:
生態系サービスとしては、イギリスの農地の周囲にある生け垣も良い例ですね。
ピアースさん:
そうですね。生け垣には鳥が巣をつくることができます。その鳥は畑に飛び出し、生け垣や畑に住む昆虫がその間を行き来して、花粉を媒介します。生け垣は畑の端に沿って続いているので、畑をつないでいることになります。生け垣が自然の通路になっているわけです。
西出:
農業のスタイルが、生き物たちの移動を助けるのですね。
ピアースさん:
その通りです。このような生け垣を私たちは「コリドー」(回廊)と呼んでいます。西出さんが言う通り、他の生息地に移動できるので、たとえば、ある生息地で干ばつや火事があったら、生き物たちは他の場所に移動して再び定着し、そこで成長して森を再生させます。この「コリドー」によって、生息地はずっとうまく機能し、景観全体が生き生きとするのです。
テイラー:
しかし、多くの生け垣が取り除かれてしまいましたね。農業を効率化するという口実で。
ピアースさん:
これは大問題です。生け垣は、花粉を媒介する昆虫や、害虫を食べる鳥たちのすみかだったのに、畑をほんの少し大きくするために、その恵みが失われてしまいました。
テイラー:
人間が取り除いてしまった生態系サービスが、今、再び必要になっているように思えますね。
ピアースさん:
そのように自然を大切にする人間は、「ラッダイト」(*1)のように思われるかもしれません。しかし、私は進歩を破壊して、想像上の美しい過去に戻りたいと思っているわけではありません。我々が提言で言っているのは、新しい種類の自然がほしいということです。生態学には「ノベル生態系」(*2)という考え方があります。世界が変化していることを受け入れ、実際に生態系が時間とともに変化してきたことを認めるというものです。生物種は移動しますし、絶滅したものもあれば、新しく生まれたものもあります。
*1 Luddite:イギリスで産業革命に抵抗して機械破壊運動を行った人々
*2 Novel ecosystems:人間の影響を受けて、従来とは異なる生物種や物理的環境からなる生態系
ですから、100年前や200年前、500年前の状態に戻す必要はありません。時代によって生態系が変化していることを認識した上で、現在の私たちに何が適しているかを決める必要があります。それは場所によって、生け垣かもしれないし、湿地かもしれません。あるいは、都市の真ん中に森があるべきなのかもしれません。

座談会はインペリアル・カレッジ・ロンドンの施設で開かれた
――次回は「進化論と生物多様性」がテーマです。気候変動により平均気温の上昇がみられる中、桜をはじめとする花の開花時期が早まっていることが、ピアース博士の研究から裏付けられました。桜の開花時期の変化を進化の観点から考えていきます。
取材協力/インペリアル・カレッジ・ロンドン
![画像1: [Vol.1] 土手の桜と湿地のビーバー|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/02/13/667bfd7197cfb02934b6a18f46a5a88bb66ef18b.jpg)
Will Pearse(ウィル・ピアース)
インペリアル・カレッジ・ロンドン 進化生態学准教授
ピアース博士の研究室では、生物多様性と人間の健康を測定・予測する新しいツールを開発し、社会的変化を後押しする。研究の重点分野は、種の進化の歴史が現在の種の相互作用にどのように影響するかを理解するための新しい計算方法の開発。研究から得られた知見を応用して自然と人間の幸福を下支えすべく、日立などの企業や、進化的に独特で絶滅の危機にある種(Evolutionary Distinct and Globally Endangered;EDGE)の保全プログラムに関わる慈善団体と協働して取り組む。
![画像2: [Vol.1] 土手の桜と湿地のビーバー|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/02/13/917b6266fb7ee86f17118259a426933f15c71fe6.jpg)
Paul Taylor(ポール・テイラー)
Laboratory Manager, Sustainability, European Research and Development, Hitachi
環境科学専攻。環境調査における測定の質と誤分類エラーに伴うリスクを評価する統計モデルの開発により博士号を取得。企業のサステナビリティ専門家として、製品やサプライチェーンの炭素会計、電気自動車に使用される金属の責任ある調達、鉱業における技術革新など、幅広い業界やサステナビリティのテーマに携わり、2022年より日立に参画。日立では、CO2排出量の削減、バッテリーのライフサイクル影響の改善、気候変動への適応のための自然の保護と活用など、サステナビリティに関する未来技術のイノベーションに取り組む。
![画像3: [Vol.1] 土手の桜と湿地のビーバー|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/02/13/f3b3a50b47a81a43671ec3ca78469387cd45cbea.jpg)
西出 聡悟
HITACHI EUROPE LTD. UK-ERD European R&D Centre
Chief Researcher
日立ヨーロッパ社の主任研究者として、生物多様性に関する監視、報告、検証の指標と、複雑系としての生態系の経済的価値を評価するモデルの開発に取り組む。凝集系物理学専攻。2010年、日立製作所入社、研究開発に参画。熱電材料の電気状態における準粒子の影響の研究により博士号取得。2019年にドイツ、MaxPlanck研究所在籍中に複雑系の研究を開始。
![画像4: [Vol.1] 土手の桜と湿地のビーバー|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/02/13/10d57079202888f28ef6940828dc6bf0bdc561fb.jpg)
森本 義謙
HITACHI EUROPE LTD. UK-ERD European R&D Centre
Deputy Laboratory Manager of Sustainability Laboratory
電気電子工学博士課程修了。2011年に日立製作所入社。2.5次元半導体積層における欠陥検出など、光学的測定技術の研究開発に携わる。MBA取得後、日立ヨーロッパ社R&Dセンターに出向。現在、ガスの輸送・分配分野の脱炭素化に向けて、水素技術における顧客との共創に取り組む。