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なぜ、私たち人類の未来にとって、生物多様性の維持・回復が不可欠なのでしょうか?Vol.2に引き続き、インペリアル・カレッジ・ロンドン(以下、ICL)の進化生態学者ウィル・ピアース博士と研究開発グループの研究者が、生物多様性と文化の深い関わりを議論します。Vol.3では、ICLの政策提言書が発信した「単なる植林ではなく、多様な生態系の回復を」というメッセージを軸に、自然と人間が共生する未来を模索します。

[Vol.1] 土手の桜と湿地のビーバー
[Vol.2] 桜の進化は何をもたらすか
[Vol.3] 多様な生態系が未来をひらく

都会育ちの少年が自然に魅せられて

森本:
ピアースさんは子どものころから生き物に興味があったのですか?

ピアースさん:
私はブリストル(*)の生まれです。美しい街ですし、大好きな故郷を決して悪くは言いませんが、やっぱり都会ですから、建物ばかりに囲まれて育ちました。
そんな子ども時代ではっきり覚えているのは、ボーイスカウトでハイキングに行ったときのことですね。田舎に出かけたら、木々や畑が見えて、目を閉じて耳を澄ますと、しんと静かで車の音なんて聞こえない。外で寝て、朝は鳥の声で目覚める。すごく新鮮な体験でした。

私はイギリスよりもっと自然の多いところに行って、できる限り自然を見てみたいと思いました。今の仕事をするようになったのは、自然の美しさを見て、自然のことをもっと知りたい、全てがどのように機能しているのか理解したいと思ったからです。

* イギリス西部の港湾都市。隣接地域も併せると人口約72万人と推定され、イギリス全体で8番目の人口。

森本:
それが、ICLの政策提言につながったわけですね。多様な生物が進化し、その多様性が生態系の機能に影響を与えていると。

ピアースさん:
そうですね。私たちの研究の主な結論は、より多様性に富んだ生態系ほど、全てがうまく機能するということでした。たとえば、気候変動と闘うために木を育てたいのであれば、単に木を植えるだけでなく、森林内に多様な種を育てることが重要です。そうすれば、その森林は自然災害や火災などに対してより強靭になりますし、より速く炭素を貯蔵します。つまり、多様な生態系を育てるという投資をすれば、より大きなリターンが得られるということです。

テイラー:
多様な種を植えるべきであって、その多様性がさまざまな面に良い影響を与えるのは明らかだと思えますよね。でも、政策を作る政府の担当者は、単純に木をたくさん植えれば良いと思っているような専門知識のない人たちを相手に、もっと多様な種を植えるべきだと伝える必要があるので、その意味で、科学的根拠に基づく提言は重要なのです。

画像: 生物多様性と文化について、活発な議論が展開された

生物多様性と文化について、活発な議論が展開された

単なる植林でなく多様な生態系の回復を

ピアースさん:
これまでの政策の多くは、どんな木でもいいから何か木を植えることでした。実際、世界中の国々で、植林する木の種類を考慮することは、かなり稀です。さらに、その木々の下で育つ生き物たちに配慮したり、自然状態では森林がないような場所で何をすべきかを考えたりすることは、もっと稀なのです。

確かに、木は多くの二酸化炭素を貯蔵するので、植林は非常に重要です。しかし、植える場所によっては木がうまく育たないということを、私たちは忘れがちです。それに、生態系が私たちに与える恩恵の中には、大気中の二酸化炭素量を減らす炭素隔離よりもっと大事な役割、たとえば、食料を効率的に生産するのに役立つ花粉の媒介者を支えているのは生態系だということも忘れています。

私たちが行った研究の成果の一つは、長い間知られていたこのような恩恵を定量化したことです。生物多様性がもたらす恩恵の正確な増加量、授粉の増加量、洪水防御の増加量を正確に推定できることは非常に有用です。つまり、大筋では同意見でも、私のような環境保護論者が「自然を愛している」と言っているだけでは、本当の意味で生物多様性を議論のテーブルに載せることができないのです。ですから、ときには確固たるエビデンスと定量化が重要だと思います。

西出:
生物多様性の維持といえば、日本では、古い木を伐採したり間伐したりすることで、里山の雑木林の健全性を維持し、多様な生き物が生息する環境を整えてきました。そして、切った木を薪や建築材料として売って得た収入は、個人が費消してしまうのではなく、共同体で蓄え、里山を維持する財源に充てていました。そこには循環性があります。持続可能な自然環境の例といえるでしょう。この場合、人が自然に手を加えることで、生物多様性や生態系を支えてきました。そのような歴史と伝統があったのです。

ピアースさん:
なるほど。イギリスで、樫の木の森の定期的な伐採と再生を行う萌芽更新(coppicing)に似ていますね。

画像: 日立ヨーロッパでサステナビリティに関する研究開発をリードするポール・テイラー

日立ヨーロッパでサステナビリティに関する研究開発をリードするポール・テイラー

生物多様性が失われるとどうなる?

ピアースさん:
現在、複合的な土地利用や日陰栽培農業に注目が集まっています。そこでは農業の集約度を下げて、生物多様性の広範な利点、例えば花粉の媒介や炭素隔離、治水対策などを提供しつつ、同時に食料や他の用途に使える資源を生産します。これには大きな可能性があると思います。人々は何世代にもわたって生物多様性を維持してきたのですが、最近になってそれをやめたのです。ときには、祖父母の時代の話を聞き、彼らがなぜそのようなやり方をしていたのかを考えるのも良いでしょう。おそらく、それが持続可能な方法だったからこそ、長年にわたって農業を続けられたのではないでしょうか。

西出:
生物多様性が失われると、人間の暮らしにどのような影響があるのでしょうか?

ピアースさん:
私たちが呼吸する空気や飲み水、食べ物、洪水に見舞われない家などが、深刻な影響を受けることになります。生物多様性の危機が重要な問題であるのは、私たちが生きていくのに欠かせないものを、生物多様性に依存しているからです。もしも生物多様性の危機が続き、解決できなければ、私たちは生存を脅かされることになります。ですから、私たちはこの問題に取り組まないわけにいかないのです。

そのために、生物多様性を気候変動対策に活用することができます。たとえば、二酸化炭素を貯蔵したり、効率的に食料を生産したりするうえで、多様な生物が繁栄するスペースをより多く確保するのです。そのためには、より多様な生態系を育み、その恩恵を世界中に、そして各家庭に、広めていく必要があります。これが問題解決の助けとなるでしょう。

どこにいても、このことを忘れてはいけません。生物多様性は、遠く離れた森や珊瑚礁にだけあるものではありません。生物多様性は、あなたの職場や住環境にも取り入れることができます。その恩恵、たとえば涼しい木陰や花粉を媒介する昆虫、精神的健康への効果などを、あらゆる場所に広めることができるのです。

画像: 日立で生態系の経済的価値を評価するモデルの開発に取り組む西出聡悟

日立で生態系の経済的価値を評価するモデルの開発に取り組む西出聡悟

生物多様性を回復するには?

西出:
生物多様性の回復のために、ある研究者が「再野生化(rewilding)」に取り組んでいるという話を聞きました。長い時間がかかりそうですよね。そうなると、次の世代に知識を伝えていく必要があります。その意味でも、生物多様性を回復するためには教育が重要なのではないでしょうか?

ピアースさん:
気候変動と生物多様性の危機に対処するには、これから20年の成否が決定的に重要です。幸いなことに、今すぐ大きな改善を行うことができます。

再野生化というのは、自然に任せることです。多くの場合、大型の草食動物を生態系に再導入することで、自然が私たちに代わって管理してくれるようになります。人間が管理するのではなく、その生態系を機能させていたプロセスを取り戻し、自然の働きに任せるのです。

私の研究室が関わった例として、「ネップ・エステート」(*)があります。再野生化の取り組みによって、生物多様性が損なわれていた農場が、わずか20年で生まれ変わりました。国内で最も美しく、生物多様性に富んだ場所の一つとなり、絶滅危惧種の個体群を保護できるようになったのです。そんなに時間はかかりません。再野生化は、自然に任せるので、非常に費用対効果の高い方法だと言えます。

* Knepp Estate:英国南部にある約1,400ヘクタールの農地の再野生化プロジェクト。2001年に集約農業からビジネスを転換し、ロングホーン牛の放し飼いで土壌や昆虫などの生態系の回復を促している。

しかし、再野生化が唯一の方法だというわけではありません。とくに、都市部の生態系を再野生化することは不可能です。再野生化したら、もはや都市ではなくなりますよね。都市部の生態系は、人間の手で積極的に管理する必要があります。そうした管理に人々が関わるようにすれば、健康にいいですし、生物多様性について人々を教育する機会にもなります。

教育の中で「生物多様性の回復は難しいことではない。そして非常に大きな投資リターンがある」ということを人々に伝える必要があります。自然は難しくて遠い存在だと考えるのではなく、自然は私たちを助け、私たちの代わりに仕事をしてくれる、そして身近にあり得るものだと、考えを変えるように促していくということです。

そういう教育は思っているよりずっと簡単です。実際、若い世代や子どもたちは自然が大好きですからね。私たち大人世代は、自然を愛する気持ちを忘れるように仕向けられ、自然を怖がるように教えられてきました。ですから、私たちはまず、自分自身を教育し直し、次の世代が私たちのような偏見を持たないようにすることが大切だと思います。

画像: 自然豊かなキャンパスで、生物多様性と文化の関係を考えた

自然豊かなキャンパスで、生物多様性と文化の関係を考えた

取材協力/インペリアル・カレッジ・ロンドン

関連リンク

画像1: [Vol.3] 多様な生態系が未来をひらく|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」

Will Pearse(ウィル・ピアース)
インペリアル・カレッジ・ロンドン 進化生態学准教授

ピアース博士の研究室では、生物多様性と人間の健康を測定・予測する新しいツールを開発し、社会的変化を後押しする。研究の重点分野は、種の進化の歴史が現在の種の相互作用にどのように影響するかを理解するための新しい計算方法の開発。研究から得られた知見を応用して自然と人間の幸福を下支えすべく、日立などの企業や、進化的に独特で絶滅の危機にある種(Evolutionary Distinct and Globally Endangered;EDGE)の保全プログラムに関わる慈善団体と協働して取り組む。

画像2: [Vol.3] 多様な生態系が未来をひらく|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」

Paul Taylor(ポール・テイラー)
Laboratory Manager, Sustainability, European Research and Development, Hitachi

環境科学専攻。環境調査における測定の質と誤分類エラーに伴うリスクを評価する統計モデルの開発により博士号を取得。企業のサステナビリティ専門家として、製品やサプライチェーンの炭素会計、電気自動車に使用される金属の責任ある調達、鉱業における技術革新など、幅広い業界やサステナビリティのテーマに携わり、2022年より日立に参画。日立では、CO2排出量の削減、バッテリーのライフサイクル影響の改善、気候変動への適応のための自然の保護と活用など、サステナビリティに関する未来技術のイノベーションに取り組む。

画像3: [Vol.3] 多様な生態系が未来をひらく|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」

西出 聡悟
HITACHI EUROPE LTD. UK-ERD European R&D Centre
Chief Researcher

日立ヨーロッパ社の主任研究者として、生物多様性に関する監視、報告、検証の指標と、複雑系としての生態系の経済的価値を評価するモデルの開発に取り組む。凝集系物理学専攻。2010年、日立製作所入社、研究開発に参画。熱電材料の電気状態における準粒子の影響の研究により博士号取得。2019年にドイツ、MaxPlanck研究所在籍中に複雑系の研究を開始。

画像4: [Vol.3] 多様な生態系が未来をひらく|イギリスの進化生態学者に聞く「生物多様性と文化」

森本 義謙
HITACHI EUROPE LTD. UK-ERD European R&D Centre
Deputy Laboratory Manager of Sustainability Laboratory

電気電子工学博士課程修了。2011年に日立製作所入社。2.5次元半導体積層における欠陥検出など、光学的測定技術の研究開発に携わる。MBA取得後、日立ヨーロッパ社R&Dセンターに出向。現在、ガスの輸送・分配分野の脱炭素化に向けて、水素技術における顧客との共創に取り組む。

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