
『私とは何か-個人から分人へ-』で「分人」の概念を世に送り出した平野さん
「個人」の誕生
私たちが当たり前のように使っている「個人」という概念は、もともと明治以降にindividualという英語の翻訳として広まったものです。individualとは、divide(分割する)に否定を表す接頭詞のinがついた単語で、もともとは「分割できないもの」という意味合いをもっています。
「個人」の概念はヨーロッパの近代化と関連しています。最小単位である人間が自分自身の体を所有していることを根拠に、まず個人に所有権を与え、そこから基本的人権を与え、法的な地位を与え、契約主体として認めていくといった形で、近代社会は分割できない一個の主体を基礎とするシステムを構築していました。この考え方が、明治以降、ヨーロッパの思想・制度を導入した日本にもそのまま輸入されて広まっていったのです。
「個人」の限界から「分人」へ
ところが、我々のコミュニケーションの次元で考えると、会社にいるときの自分と、恋人や家族と一緒にいるときの自分は違います。どうやら自分はそんなに一貫した人間ではないという実感があるわけです。誰もが、いろんな局面や対人関係において自分が分化していく経験を持っており、ロマン主義の文学でもさんざん描かれています。こうした自己の一貫性の問題を捉える上で苦肉の策として考えられたのが、本当の自分は自我として自分の中心にあるけれども、社会生活を営むために表面的なペルソナを使い分け、社会とコミュニケーションを図っているのだという考え方です。これは心理学者のユングが整理し、提唱したモデルで、かなり一般化し、現在に至るまで信じられています。
しかし、「社会生活はすべてペルソナで過ごしているんだ」と割り切れるほど僕たちが演技的に生活しているかというと、そんなに実感はありませんよね。さらに、社会的な自己が表面的な仮面だとするならば、本当の自分とは何なのかという非常に難しい問いが生まれます。「分割不可能な主体」という概念が人間同士のコミュニケーションを分析していく上で単位として大きすぎるのならば、人間をさらに小さな単位に分割して、コミュニケーションごとに変化していく人間を具体的に観察してみればいいのではないか。そう考えて生まれたのが「分人」の概念です。人間は一貫した分割不可能な主体を生きているのではなく、実は、対人関係ごと、場所ごとに分化したさまざまな人格を生きており、対人関係や環境の変化によって、各人格の比率が常に変化し続けると考えてみたわけです。
たとえば、高校時代の僕の分人は、「学校にいるときの自分」「塾にいるときの自分」「家での自分」と非常に単純な構成でできていましたが、いまは「出版社の人といる自分」「妻や子どもといるときの自分」「外国の友達といるときの自分」など、かなり複雑に分化しています。円グラフに表して2つ並べてみると、高校時代から現代に至るまでの変化が見えてくるでしょう。
分人化は、人間同士のコミュニケーションを観察した結果得られた中立的なモデルです。たとえば、「あの人は権力者にはこびへつらうけれど、弱い立場の人には強く当たりがちだ」ということがあっても、それはあくまで分人化の仕方の問題であって、分人化そのものが悪いわけではないと僕は考えています。そして、どんな分人化が望ましいのかを考えるのは、その人の価値観と関わる問題です。「裏表のある人間」の裏の部分がどうなのかということと、そもそも「裏表」というような複数の人格を備えることの是非は分けて考える必要があるでしょう。

歴史的な側面から「個人」の成立とその限界を語る平野さん
子どもは案外、分人化している
一般的に、人間は小さい頃は非常に無邪気で、自分のありのままを表現していると思われがちです。分人化についても、大人になるにつれて社会的な顧慮からさまざまな自分を使い分けるようになるイメージがあるかと思いますが、僕は、実は逆だと思っています。
僕の子どもがこども園に通っていた頃のことですが、夕方迎えに行くと、好きな友達や先生に対してはすごく積極的だったり、嫌いな子に対しては親としてはちょっと戸惑うぐらいに冷淡だったりと、露骨に分人化している姿を見ることがよくありました。とはいえ、もし先生にも親である僕にも同じ態度だったとしたら、それはそれで非常に寂しくて、やはり親である自分には、先生に対するのとも友達に対するのとも違う、特別な顔を見せてほしいと思うでしょう。つまり、実のところ、子どもはコミュニケーションの中で自然にさまざまな自分を生きているのですね。
ところが、一人の人間に多面性があると、管理が非常に難しくなります。たとえば、学校の先生が生徒を管理しようとするとき、教室以外で見せる顔も含めて全てを管理するのはとても難しいものです。または、何かの契約を結ぶ時、相手に裏の顔があって非合法なことをしていたりするとたいへん困ります。首尾一貫した人間同士でないと、契約を結ぶ時に非常にリスクがあるわけです。また、先ほどのような露骨な好き嫌いの表現は、コミュニティに歪みを生みます。従って、子どものうちは非常に自然に分化しているものの、成長するにつれて「どこへ行っても誠実な一人の人間でないといけない」と社会的な圧力を受けながら大人になっていくのではないでしょうか。
このように、社会的には守備一貫した裏表のない人間であることが求められる一方で、現実の社会には多様な人間がいます。特に現代はかつてないほどに、多様性の尊重や、多様な相手とのコミュニケーションが求められる時代です。コミュニケーションのためには人格が多様に分化する必要があるのに、一方では人格の一貫性を求められる。そこで、「表面的にはいくつかの人格を使い分けているけれど、本当の人格は一つだ」と思い込むわけですね。
しかし、人間は社会的な動物ですから、社会に一歩出ればどうしても相手の思惑に翻弄され、「本当の自分とはいったい何なのか」と思い悩むことになってしまいます。ですからまずは、コミュニケーションの中で分化していく自分というものを自覚し、人間が人格を分化していくのは自然なことだと捉えてみようというのが、分人主義の一つの提案です。

会場には、研究者やデザイナーをはじめ、多くの人たちが集まった
死までの時間
ここから、少し存在論的な観点から「本当の自分」という問題を考えてみたいと思います。僕が「本当の自分とは」という問いを持つようになったのは、僕が1歳のときに急逝した父の影響があります。父が食事のあとに横になって新聞を読んでいたらそのまま亡くなったという話を、僕は幼い頃から聞かされていました。死が突然訪れるというのは子ども心にも恐ろしく、友達と遊んでいるときにも「もしかしたら次の瞬間に死ぬのかもしれない」という思いがよぎるんです。ファミコンをやっている途中に死んでしまったらつまらない、もっと本当にやりたいことや、いまやるべきことがあるんじゃないかと考えるようになったのですが、いざ「本当にやりたいことは何なのか」と考えるとさっぱり分かりません。自分がやりたいことを知るために、自分というのは何かを考えなくてはいけなくなったわけです。
死は誰にも避けられません。ここにいる皆さんも誰一人例外なく、そのうち死にます。そうすると、死を考えるとき、残された時間で自分が何をすべきかを考えるのは自然なことでしょう。スティーブ・ジョブズが毎朝鏡の前に立ち、「今日もし自分が死ぬとして、これからやろうとしてることは本当にすべきことなのか」と自問していたという話は有名です。ジョブズの名言に対し、ある僕の友人は「今日自分が死ぬと思ったらもう仕事なんかせず、大好きな家族とゆっくり過ごしたい」とツイートしていました。その通りだと思って僕は笑ってリツイートしたのですが、その後彼は自殺してしまいました。つまり、リアルに死を間近にイメージしながらのツイートだったということなのです。
これは極めて重要なことで、哲学者のハイデガーも著書『存在と時間』で、ジョブズの言ったようなことを書いています。かなり単純化すると「人間はふだん死の恐怖について考えないようにしているが、いったん死をリアルなものとして受け止めると本来の自分に立ち返る」という内容で、当時のドイツの青年たちに強い影響を及ぼしました。
ところが、『存在と時間』は死が来る具体的な時期について一切言及していません。本当は、今日死ぬと思うか、3年後に死ぬと思うか、10年後に死ぬと思うかによって、できることはかなり違うはずです。しかし、それについてハイデガーは何も語っておらず、死に気づかず漫然と生きることを全否定するのみです。そうすると読み手は死への不安を抱き、今の生が偽物のようなものだと感じる一方で、いつ死ぬか分からないから個人的なプロジェクトの立てようもない、ということになります。それでも何かしなくてはという思いに突き動かされた青年たちは、社会の中の大きなプロジェクトに身を投じるしかありません。しかも、それが国家を守るための命がけのプロジェクトであるとなれば、その中で生きることが本当の自分の生なんじゃないかと思うわけです。こうして『存在と時間』は、ドイツの青年たちをナチズム運動に駆り立てていくような要素を備えていたと僕は理解しています。
――ヨーロッパの近代化がもたらした「個人」の概念は、「本当の自分とは何か」という解けない問いを生み、その問いは社会の潮流とも大きく関わっていくことになる、と平野さんは語ります。Vol.2では、平野さんが「分人」の概念を獲得するに至った経緯や、「分人」によって見えてくる新たな人間モデルについて、さらに語っていただきます。
![画像: [Vol.1]個人とは何か│平野啓一郎さんと考える、AI時代の「分人」と「ID」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/05/13/7beed50916bf8e3dc0a07028d8c873fa9a35fb24.jpg)
平野 啓一郎
小説家
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。
著書に、小説『葬送』、『高瀬川』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』等、エッセイに『本の読み方 スロー・リーディングの実践』、『小説の読み方』、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』、『死刑について』等がある。2024年10月、最新短篇集『富士山』を刊行。