[Vol.1]鮨屋では、なぜ客がテストされるのか
[Vol.2]新しい自己表現をするプロセスをデザインする
[Vol.3]闘争をどうデザインに取り込むか
鮨屋を研究した理由
私は現在、新しい創造性のプログラム「Kyoto Creative Assemblage」をやっていますが、今日は「闘争としてのサービス」についてお話したいと思います。
「サービスとは」と検索すると、一般的には「顧客の要求を満たす」「問題を解決する」「便益をもたらす」などと書かれており、顧客満足度が非常に重要な変数になっています。これ自体は間違ってはいないのですが、何かおかしい気がします。
またサービスドミナントロジックでは、サービスの定義は「他者、あるいは自身のベネフィットのためにナレッジとスキルを適用すること。顧客は常に価値の共創者である」とされています。これもベネフィットのため、というところが少し違うのではと感じます。
なぜ「サービスは顧客満足度」と単純に言えないのか。それを研究するために、お鮨屋さんの研究を始めまして、現在「サービスは闘いである」と提唱しています。
いまからお見せするのは、有名な鮨職人「すきやばし次郎」の小野二郎さんを追ったドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢も見る」のワンシーンです。
まずは料理評論家の山本益博さんがお店に入っていくシーンですが、山本さんが「何遍行っても緊張します」と言っています。そして、山本さんがカウンターに座って食べ「美味しい」と言いますが、小野さんはカウンターの中で表情ひとつ変えず、無表情でその姿を見ています。
このシーン、お客さん満足度からすると明らかにおかしいですよね。お客さんの山本さんは数万円を払い、「美味しい」と言っているのに、小野さんはこの表情です。これほど痛々しいことはないですよね。しかも「何回行っても緊張する」とも。お金を払っている客がなぜ緊張しないといけないのか、ということです。
それで鮨屋の研究をしようと思い、都内の非常に有名な鮨屋さん4軒にお願いしてビデオカメラを数台、ボイスレコーダーを10台ほど並べさせてもらい、やり取りを記録させてもらいました。動画は会話に書き起こし、言葉と言葉の間(ま)も計測して、その間の長さから言葉には表れていない内面の様子も分析しました。
鮨屋は、最初の会話で客をテストする
これからお見せするのは、初めて来店したお客さん2名がカウンターに座ろうとするシーンです。座ろうとした瞬間に親方が「お飲み物どうしますか?」と聞きます。お客さんは「あー」と言った後「蒸してるんで、生ビールで」。すると親方はそれにかぶせるように「生ビールいきましょう」と言います。
どう思われますか?
まず、お客さんが座って落ち着く前に「お飲み物どうしましょうか?」と聞いています。何がおかしいかというと、何も説明せず、メニュー表も渡していません。そもそもこの店にはメニューがないですし、説明もしてないので何があるのか、そして値段も分からない状態です。何の情報も与えずに、いきなり注文を取るのはお客さんにとって難しい状況です。
そしてお客さんは「生ビール」と言えばいいのに、わざわざ「蒸してるんで」と理由を言っています。なぜでしょう。この注文が適切ではないかもしれない、生ビールと言うだけでは問題が起こるかもしれない、と思っているからです。しかも「生ビールでー」と音を伸ばしながらちらっと親方を見ます。親方の反応を気にしながら注文しているのですが、自分の注文に自信がないのです。
親方は、この自信のなさを分析しています。だから次に「生ビールでいきましょう」という言葉になります。英語では「Let's」ですが、それは親方が自分を関与させて「いいですね」と言っているわけです。
2つ目の動画は別のお店ですが、座った瞬間にアシスタントの方が注文を取りにきます。やはりメニューもないですが、お客さまは間髪入れず「ビール」と答えています。続く「大瓶、小瓶がございますが」という質問にも「小瓶で」。「キリンとアサヒがございますが」にも「キリンで」と。お客さんは次にどんな質問が来るかを分かって答えています。
実はこれらのやり取りによって「自分の客はこれぐらい答えることができて当然である」と店のサービスが定義されています。そうすると、お客さんはそれに合わせないといけなくなり、慣れないお客さんは答えが適切かどうかを心配しながら注文します。
つまり、お客さんは座った瞬間にいきなりテストされるということです。そして、飲み物のテストの後には、「何かお切りしますか」という質問が来ます。これは「おつまみとして、何かお刺身を食べますか?」という意味です。
慣れている人なら何を切ってほしいか指定するわけですが、慣れない人は「はい」とか「少し」とか答えます。そうすると親方が「何がいいですか?」と聞き直し、すぐに返事できない人には親方が「白身か、生イカか」とヒントを出します。
これらのやり取りを通して、お客さんが試されているわけです。当たり前のように難しい質問をして、お客さんがどれだけ分かっているかを分析していたわけです。
客を満足させようとすると、客が満足しない
問題は、なぜ顧客をテストするのかという点です。既存のサービス理論では「顧客に便益をもたらす」「要件を満たす」「解決する」と定義しているので、テストする理由がありません。ということは既存の理論がおかしいわけで、新しい理論を考えないといけない、という状況になります。
結論から言いますと、サービスには次のような弁証法があります。「客を満足させようとすると、客が満足できない」。
どういうことかというと、親方が笑顔を見せ、顧客を喜ばそうとしたら、客は単純に喜んで帰れないのです。なぜならその瞬間、親方は客に従属する関係になるからです。従属と言っても客の言いなりになるわけではなく、親方が客の評価を気にしている、という関係になることを意味しています。つまり、客は親方を評価する立場になります。
そうすると、従属する親方からのサービスは、客にとって価値が毀損します。客は喜んで帰りたいのですが、喜ばせようとされると喜べない、という矛盾を抱えているという意味で弁証法だと言えます。私はこれを、弁証法的闘争と呼んでいます。
では、お客さんは鮨屋のサービスにどんな価値を求めているかというと、親方がお客さんのために仕事をしているのではなく、完璧な鮨を握るために仕事をしていることに価値がある、ということです。
19世紀の哲学者ヘーゲルの、主人と奴隷の弁証法を見てみましょう。AさんとBさんが出会うと、互いに相手からの承認を求めます。しかし、AさんがBさんの承認を得るには「俺はこんなにすごいんだぞ」と証明して、Bさんに自分を認めさせなければなりません。でもそれは同時にBさんを否定していることになります。Aさんも同じことをするので、生死を賭した闘いになります。
ただし本当に死んでは意味がないので、一方が戦いを諦めて敗北し、勝利した方が主人になります。主人は奴隷から完全な承認を得ることができますが、その承認にはすでに意味がなくなっています。なぜなら、奴隷からの承認では意味がないからです。これがサービスの関係においても成立します。親方が、奴隷のようにお客さんを喜ばそうとしたら、その承認には意味がないのです。
闘争を通して自分を証明し、承認を得る
自分がレストランの経営者だとしましょう。レストラン経営者であるならば、価値を出すために「自分のレストランはこんなにすごい」と示そうとします。ところが、自分の店はすごいと示すということは、その瞬間にお客さんに対して「ここはあなたが想定してるあなたの日常のような世界ではありません。あなたの知らない世界ですよ」と言っていることになります。
お客さんはそこで背伸びをしないといけません。つまり結局、闘争を通して初めて自分を証明して、承認を得ることができるのです。言い換えると、お客さんにとってはサービスを通してニーズを満たして帰ることではなく、サービスを通してお客さん自身が新しい人になっていくことに価値があるんです。
何か価値を示そうとすると、サービスは客にとって分かりにくいものになる必要があります。だから鮨にはいろいろな作法がありますし、高級なレストランに行くほどメニュー表がなかったり、筆で書いてあって読めなかったりと、情報量が少なくなり、分かりにくくなります。鮨屋のお勘定には合計だけが書いてあって分かりにくいですよね。作法も同じです。作法が作られるということは、作法を知っておかねばならないということなので、サービスを難しくします。
さらに面白いのは、鮨屋で「鮨には順番があって白身から食べるんだよ」と言うと、親方は必ず「順番なんて気にしないで、好きに食べればいいんだよ」と否定します。そんなはずはないんだけれど、作法を知っている人に対しては、それを否定しないといけないんです。
――次回、講演の後半はサービスについてさらに深く解説しながら、これからのサービスデザインについてのあり方についてお話いただきます。
山内 裕
京都大学経営管理大学院教授
「Kyoto Creative Assemblage」代表。カリフォルニア大学ロサンゼルス校にて経営学博士号取得。ゼロックス・パロアルト研究所研究員などを経て、2010年より京都大学経営管理大学院 。専門はサービス経営学、組織文化論など。レストランなどのサービスにおける顧客インタラクションをビデオに記録し分析するエスノメソドロジーを研究し、また文化的な視座からのデザインのアプローチを開発している。
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