[Vol.1]個人とは何か
[Vol.2] 幸せに生きるための分人主義

国家がアイデンティティを利用してきた歴史を語る平野さん
職業がアイデンティティを規定する
近代以降の実力主義の社会では、身分に代わって職業がアイデンティティの中で比重を占めるようになりました。僕たちは自己紹介をするときにまず職業を言い合います。また、職業が自分の本当にやりたいことや個性と合致していることを望ましいと考えます。それは、刻々と死に近づいている自分の時間がやりたくないことで占められていると感じるのが耐えられないからです。
日本では長く終身雇用制が採用されており、僕が世の中に出た時代も、生涯に一つの仕事を全うするのが当たり前だと思われていました。だから本当にやりたい職業につくのが理想であり、そのために、自分がどういう人間なのかを知り、自分に合った職業を通じて社会的に自己実現していくといったモデルが広く受容されていました。
そうした時代には、たとえばピアノが非常に上手な子どもがいたとしても、「ピアノでは食べていけないから、ピアノは趣味にして大学に行きなさい」というふうに、やりたいことを絞り込むよう強いられていました。たしかに、インターネットのない時代は社会的なネットワークに接続するのが困難でしたから、会社から帰って副業をしようとしても時間的にもインフラ的にも難しく、職業を一つに絞り込まざるを得ない面もありました。しかしいまは、国を挙げて副業を後押ししている時代です。そうした変化にもかかわらず、相変わらず本当の自分を一つに定めて一つの職業に対応するようなモデルを採用していると、「自分」というものの捉え方が非常に難しくなります。それよりも、人間は環境や対人関係ごとに分化する複数の人格を生きており、それぞれに対応した複数の職業が選択できるという認識のほうが、状況にふさわしいのではないかと思っています。

「変化の大きい時代にこそ複線の人生を」。聞き入る参加者
第三の領域の登場
ここで、労働と余暇の問題を社会の側から見てみましょう。ハンナ・アーレントは古代ギリシャ以来のヨーロッパ社会を分析し、「公私二分論」の起源について語っています。現代社会はプライバシーが非常に重視されていますが、古代ギリシャでは公共的な空間で政治参加することが重要で、プライベートの生活はまったく重視されていなかった、という議論です。それが、19世紀に入って社会が分業体制になり、産業革命が起こって労働者として多くの人が社会に出て働くようになったときに、公共的領域と私的領域の間に社会的領域という第三の領域が生まれてきました。
これは非常に曖昧な領域で、文学はまさに、公私にまたがるこの社会的領域で発達してきたとされています。歴史家のアマル・コルバンによる著書『レジャーの誕生』によると、全ての市民が労働者として社会の中で働き始め、分業体制がしかれるようになると、それぞれの労働者が常に健康で滞りなく働き続けてくれることが重要視されるようになりました。労使間の交渉で労働時間がだんだん短くなっていたという面もありますが、経営者の側も、睡眠時間を削らせて働かせるより、少し休憩させた方が生産性が上がることに気づいたんですね。こうして労働時間の削減が実際に進んでいきました。労働者が勝ち取った権利と、経営上の合理性の両面の理由で、余暇の時間が増えてきたのです。
すると、こんどはその余暇の時間に何をするのかが気になり始めます。労働者が会社に来たときに疲れていると困るため、家庭での過ごし方が社会全体の関心になっていきました。極端な話、夫婦生活の頻度といった全くプライベートな領域のことが社会的な関心になり、模範的なモデルが示されるようになりました。私的な生の中に、公共的な関心を呼ぶ領域ができたわけです。その中に、近代文学が扱った人間の心の問題も含まれています。というのは、メンタル不調は、失恋や家族の死など、私的領域での体験が引き金になることも多いのにもかかわらず、労働の場に影響を及ぼすからです。こうして私的領域における活動にも社会が関心を向けるようになり、文学が非常に大きな存在感をもつようになったとされています。

「分人」の概念を生み出すに至った経緯を語る平野さん
人は一つの自分ではいられない
僕が分人のアイディアを最初に考えたのは『ドーン』という小説以降です。その前に書いた『決壊』は、古い個人というモデルを採用したまま、対人関係に合わせていろんな人格を生きる主人公の話でした。主人公は「いったい自分とはどういう人間なのか」と答えのない問いを抱えてニヒリズムに陥り、物語としては非常に暗い結末になってしまいました。しかし、「個人」というモデルを通じて考える限り、この問題は解決しようがありません。
この先を小説家として考える必要があると思い、次に書いたのが近未来に人類が有人火星探査に行く物語『ドーン』です。執筆のきっかけとなったのはあるドキュメンタリー番組です。有人火星探査をめざし、NASAは周回軌道の関係で、3年かけて火星に行き、地球に帰ってくる6人乗り程度の宇宙船を構想したのですが、ハード面に関しては、楽観的にせよ実現の見通しが立った一方で、人間の精神が3年間密室の中にいることに耐えられないのではないかという懸念が払拭できませんでした。精神を保つ上では、ある程度違う人と会って違う自分になることが重要なのではないかと感じたときに、そもそも人間はいろいろな環境でいろいろな人格になっていることの意味に思い至りました。
世界は多様ですから、コミュニケーションを取ろうとすれば人間はどうしても分人化していきます。さまざまな背景をもつ人との関わりが増えているいま、分人化はますます進んでいくでしょう。2036年の未来を考えるとおそらく人間は非常に多面的な存在になっていく。その一方で科学の最先端をゆく有人火星探査の場で、6人が3年間まったく同じ人間を生き続けなくてはいけない。科学の最先端で原始共同体のような生活を強いられるというギャップが面白いと思って『ドーン』を書き、「分人」のアイディアが生まれました。
個人と分人をレイヤーで考える
分人が自然な人間のあり方だと考える一方で、社会が人間を管理していくときはやはり、「個人=individual」の概念に基づいて行う以外にないと、恐らく考えられています。いま、フェイクニュースやヘイトスピーチなど、SNSのコントロールが社会課題化していますが、SNS企業は、個人情報を登録させて、何か問題が起こればその情報を開示するという形で、つまり人間を個人という概念に紐づける形でしか管理できません。そこから外れて多様な場所で分人化していく人間を管理しようとすると、まず社会的なコストが莫大なものになる上に、結局は、戸籍に登録している情報からいくらでも逃れることができてしまいます。人間には際限なく匿名化しながら分人化していく傾向がある一方で、国家権力の中からは同一化の圧力が常に働きつづけます。その中で、どの程度管理システムに依存しながら、そこから逃れるようにして生きていくのかという揺れ動きが今後も続いていくのではないでしょうか。
人間のアイデンティティを統合し得る情報は何かというと、一つは国家に登録する情報であり、もう一つはやはり生体情報だと思います。特に顔は、どんなに分化が進んでも、人間を一つに統合する重要な部位です。顔がアイデンティティを強固に一つに縛り付けているので、運転免許証もマイナンバーカードも、顔認証が一人の人間だということの証拠としていまも用いられているわけです。現実としては、顔以外にも指紋や動脈、静脈などいろいろな生体情報が、一人の人間が一人であることを確証しようとする一方で、コミュニケーションの次元ではますます分人化が進むでしょう。矛盾を感じるかもしれませんが、僕はむしろレイヤー化して考えるべきだと思います。法システムや契約といったレイヤーでは、僕たちは相変わらず個人という単位を中心にシステムを構築していますが、現実のコミュニケーションの次元では分人という、より細かな単位の中でコミュニケーションを行うということです。分人化することで理解できる自分のアイデンティティや感情がある一方で、問題が起こったときには個人という法システムのレベルに問題を引き上げて、そこで処理する。僕たちは、個人というシステムに属しつつ、現実的には分人というモデルで把握した方が理解しやすいコミュニケーションの世界を生きているのだと思います。

分人化が進んだとき、私たちの社会はどのように変容するのだろうか
自己肯定と「分人」
分人の考え方は、自己肯定感の問題ともつながってきます。自分のことがすごく好きだと自信を持って言う人もいるかもしれませんが、自分を分割不可能な全体として捉えると、やはり嫌なところもあるし、はっきりと「好きです」とは言いにくいものです。特に自分の人生がうまくいってないときには簡単に自己否定に陥り、最悪の場合は自殺してしまうこともあります。
ところが、自分を分人ごとに把握することができて、「この人といるときの分人は好きですか」という問い方をすれば、Aさんと一緒にいると良い気分になるし、その自分は好きですという言い方ができるでしょう。今度はBさんといるときの自分はどうですかと問うと、あの人はすごくパワハラ的で、あの人の前に出るとプレッシャーを感じてうまく話せなくなって、そのときの自分は好きではありませんというように、自分の好きな自分、嫌いな自分を客観視していくことができます。
自殺した人について調べてみると、「会社のときの自分が嫌だ」と部分的な負の感情を持ちながらも、家では配偶者や両親と非常に関係が良かったり、親友がいたりと、実は好きな自分もあったはずなんです。ところが個人という概念の大きさ故に、本当は自分の中に複数の自己があるはずなのに、全部一緒くたにしてしまった結果、自殺へ至ってしまいます。そこでもし、「辛さを感じていない自分もいる」ということが発見できれば、そこの比率が大きくなるよう、人生設計をし直すことが可能です。
バーチャルリアリティの分人はありか
そう考えると、今後メタバースは新しい環境として重視されるのではないかと思っています。たとえば家に籠ってゲームばかりしていると、これまでは大抵ネガティブに語られてきましたが、「学校での分人は非常に苦しいけれど、ゲームをやってるときは、唯一自分が生きててもいいと思える分人でいられる」と言うのであれば、これは必ずしも否定できません。ただし、そのゲームの中で対人関係が苦しくなり、今度はそれがストレスになるのならば、また別のことを考えていく必要が出てきます。
たとえば自分が死ぬ間際に、どういう分人を生きた時間が一番長かったのかを振り返ってみたとして、小学校のときの自分は友達といて楽しかったなとか、好きな人と結婚できていい家庭を持ったなとか、良い職場だったなとか、3つか4つぐらい自分の好きな分人を生きた時間が長かったと思うことができれば、自分の人生に一定の満足が得られるのではないでしょうか。
ずっとメタバースの世界に入り浸り、フィジカルの世界よりもバーチャルの世界にいる時間の方が長かったという人も、今後出てくるかもしれません。しかし自分が亡くなるとき「そのときの分人が良かった」というふうに思うのならば、それは必ずしも他人が否定することでもないのではないでしょうか。
一方で、我々は、メタバースも含めたこの世界自体を維持するため、政治参加を通じてルールを決定して生きていかなくてはなりませんから、完全にあちらの世界に入り浸っていて、そもそもこの世界自体のルール作りに参加しないことが許されるかという政治的、倫理的な課題が残りそうです。この辺りの話は技術の問題とも関連しますので、ぜひこの後の討論の時間にもう少し深掘りしていきたいと思います。
――分人主義が人の生活に与える影響を語った平野さん。Vol.3では、日立の研究者やデザイナーを交え、「ロボットに分人は必要か?」をテーマに語り合います。
![画像: [Vol.2] 幸せに生きるための分人主義│平野啓一郎さんと考える、AI時代の「分人」と「ID」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/05/13/7beed50916bf8e3dc0a07028d8c873fa9a35fb24.jpg)
平野 啓一郎
小説家
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。
著書に、小説『葬送』、『高瀬川』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』等、エッセイに『本の読み方 スロー・リーディングの実践』、『小説の読み方』、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』、『死刑について』等がある。2024年10月、最新短篇集『富士山』を刊行。
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