[Vol.1]個人とは何か
[Vol.2] 幸せに生きるための分人主義
[Vol.3]ロボットに分人は必要か
[Vol.4] 分人主義を取り入れた職場は幸せか

白熱するディスカッションに聞き入る来場者
職場に「分人」を取り入れてみる
高田:
私自身、平野ファンとして先生のご著書を読むたびに、どこか慰められたり救われるような気持ちになります。それはやはり、自分のアイデンティティに対して分人という視点を得ることで、心の避難場所を得られるということなのだろうと思います。コロナ禍でリモートワークが増えたことで、多くの人が「会社での分人」と「家庭での分人」といったスイッチングが難しくなる体験をしたのではないでしょうか。私たちはこれからもリモートワークやオンライン会議を日常的に行っていくでしょうし、今後はメタバースで働くことも進んでいくと思います。その上で、より働きやすく幸せな職場をデザインする上で分人の考え方がヒントになるのではないかと思っています。
職場に分人の考えを取り入れたらどんなことが起こるのか、皆さんにキーワードを挙げていただきながら、ディスカッションしていきたいと思います。
藤原:
私は「アイコン、属性」をキーワードにお話します。コロナ禍はメタバースが流行した時期でもあって、アバターやアイコンなど自分の顔でないものを映して会話する人たちが増えました。X(旧Twitter)などテキストでのコミュニケーションにおいても、アイコンがその人を表して、テキストだけどその人が喋っているような感覚になることで、非同期コミュニケーションをうまくやっている印象があります。また、クマやウサギのようなアバターで授業を行っている専門学校の例もあって、それまでオンライン授業で顔を映すことにストレスを感じていたのが、自分が犬になったり先生がサルの顔になったりしているので安心して質問できるといった話も出てきています。アイコンやアバターを使いながら分人をスイッチしていくことは既に行われているし、それによって自分を保つことができるのは幸せなことだと思います。

日本のライフステージモデルのあり方に疑問を感じたと自らの体験を語る平井
平井:
私は少し否定的な意味で「ライフステージモデル」とのキーワードを考えました。あるとき、日本の大学で働くイギリス人の教員に「日本の大学は学生がみんな同じ年齢なのはかなり変だ」と言われたんです。それを聞いてふと調べてみたのですが、日本の「受験浪人」を表す英語はないんですね。先ほどの先生のお話でも、ピアノをやりたくてもある時点で諦めてしまうという話がありました。会社の中でも何歳で課長、何歳で部長という具合にライフステージがかなりリジットにモデル化していることが、幸せ感を削いでいるのではないかと思います。ここを脱するために、分人の発想を持つことがいいのではないかと思っています。
鈴木:
私は「符号→振るまい」というキーワードを挙げました。いま私はオンラインサービス上で本人確認するための認証技術に関わっています。認証のためには、アイデンティファイアとという人を識別するためのID符号や、パスワード、または本人の属性情報として氏名や住所といった固定的なデータを使用することが多いのですが、それに加えて「人のふるまい」もアイデンティティとして捉えられるようにすると良いのではないかと考えています。たとえばオンライン会議でカメラがオフだと、初めてご一緒する人がいても「この人は誰だろう」とずっと思いながら会議に参加することになります。アイコンで名前や所属は分かりますが、実際どういう方なのか分からないままコミュニケーションが続いていくのは、ストレスを感じるかもしれません。たとえば、知らない人からいきなり強いコメントが来たら不安になりますが、もともとそういう話し方の人だとか、ちょうどこの日は少し機嫌が悪かったというような背景が分かれば捉え方も少し変わってくると思います。他にも、たとえばオンライン上で作業をするときに、「この作業をやるのは初めて」とか「この業務に関してはこれぐらいの知識量がある」といった細かい属性も共有できると幸せなのではないかと考えています。

「アイデンティティに振るまいを含めることで人の幸せに寄与できるのでは」と鈴木
バーチャル体験を多様性理解に活かす
高田:
3人の話を聞いて、平野先生はどう思われましたか。
平野さん:
僕の知り合いで、メタバース上でかわいい女の子のアバターで活動している男性がいます。彼がメタバース上で歩いていると、本当にいきなり近寄ってきて体を触ってくる奴がいるというんです。頭では女性がそういう目にあっているのを理解していたけれど、たいへんショックを受けたと言っていました。それを聞いて、メタバースにはさまざまな人の立場を経験する教育的効果があるんじゃないかと思ったんです。他にもたとえば、公共空間をデザインするときに、車椅子のアバターを動かして使いやすさを検討してみる、というような使い方もできるのではないでしょうか。僕は建築の分野に関わったことがあって、あるとき建築学科の学生のコンペを見る機会があったんですが、モデルの中に車椅子を置いている人を一度も見なかったんです。そういうことがバーチャルで経験できるのはやはり重要だと思います。
リモートワークの話でいうと、以前は「どこにいても家族の息吹が感じられる」といった開放感の高い住宅が良しとされましたが、僕はもう昔からそれは大反対なんです。僕は田舎の古い家で生まれ育ったのですが、2階の自室に行くと完全に孤立していて、でも、そんな親の目の届かないところで長い時間を過ごしたからこそ僕は小説家になれたと思っています。子どもの行動を把握したい思いの半分は、やはり監視なんですよね。常に親と一緒のときの分人で過ごすとなると、子どもは本当の意味でクリエイティブにはなれないと思います。
一方で、オンライン会議中に急に子どもが画面に出てきたりと、仕事相手の親としての分人を垣間見るような場面も増えました。僕は意外とそれもいい効果なんじゃないかという気もしています。というのは、その人の背景が見えると、パワハラやセクハラのようなひどいことはあまりできないのではないかと思うんです。その人に、いま自分が向かい合ってる分人とは違う分人があることが見えると、やはり多少は「尊重しなくてはいけない」と思うのではないでしょうか。あるいは男性社員が育休の取得を申し出たときに、実際に妻や子を見たことがあると受け止めやすくなるといった小さな情報の開示も意外と効果的なのではないかと思います。ただこれも、悪い人が相手だと垣間見た情報を悪用される危険もあるので、誰に対してどんな分人を出すかというのは大切な問題だと思います。

平野さんの小説『ドーン』の一節からさらに話題が広がった
「ぼーっとする分人」を許容するデザインを
平野さん:
今日、講演の前にメタバースを使った業務の管理システムのデモンストレーションを見せていただいて、AIが危険を知らせてくれるというのは便利だと思う一方で、監視と管理がどういうふうに両立するのかという点はやはり議論されていくべきだと思いました。
職場にいるときって、ぼーっと考え事をしたりして、微妙に職場の人間じゃない分人になっている瞬間がけっこうあると思うんです。全時間をモニタリングするとなると、全時間を「働いている人間」として過ごさなければならない感じがしますが、実際は、働いている分人は80%ぐらいで、残りの20%ぐらいは妄想している分人だと思うんです。その余地がなくなるシステムになることが、みんな少し怖いのではないかと思います。管理上必要な部分は押さえながら、仕事中もときどきぼーっとしていることを微妙に許容しているようなシステムの作り方を探っていくのが、納得感のあるところなんじゃないかなと思っています。
高田:
他者に共感する分人を作る必要性のお話は、まさに鈴木さんの言った、振るまいで人を捉え直し、アプローチやサービスを提供していくということとつながりそうですね。また、最後の全時間モニタリングの話は、人間を個人として認識している限りずっとモニタリングするしかないけれど、ふるまいで分けていけるならば、気を抜いているときはモニタリングを切るようなこともできるようになるのかなと思いました。
鈴木:
確かに、こちらの意思にはおかまいなく、全時間モニタリングされてしまうというのは困りますね。やはり、「自分にとってメリットがあるならば開示をする」というように制御して、本人が納得する形で出す必要があると思います。「今日は体調不良だからふだんと同じようには仕事ができない」といった刻々と変わる情報も、本人が開示していいと思えるのならば、相手に出してあげてもいいのではないかとは思います。
平野さん:
付け加えると、ぼーっとしている時間はもしかするとけっこうクリエイティブかもしれません。関係ないところからいいアイディアを思いつくことは実際によくあります。そう考えると、厳格な分人化を求めるようなシステムだと、むしろ柔軟なアイディアが出なくなる恐れがありますね。やはり制度設計の時点で、ある程度の運用上の弾力性や設計自体の余裕がある方が、ゴリゴリに管理するよりも生産性も上がるのではないでしょうか。
高田:
ゼロイチで分人が切り替わるというよりも、ニュートラルな部分や、切り替わりの微妙なグラデーションも上手く組み込んでおけると、働きやすい環境になるのかもしれませんね。

会場から寄せられた質問に答える平野さん
リアルな人間との関係性は
高田:
ここからは会場の皆さんも交えて質疑を行います。
質問者:
AIとの間に発生する分人で過ごす時間の方が楽しくなってくると、リアルな社会からはだんだん孤立していくこともありそうです。本人が幸せなら良いと思う一方で、不自然な気もしますが、先生はどうお考えですか。
平野さん:
AIの出現以前から既に、人間一人あたりが処理する情報量が増えすぎており、情報を圧縮してハンドリングできるサイズにする仕組みが必要な段階に来ていたと思います。例えば医学の世界でも、患者一人に対して、血液検査や遺伝子検査の結果、MRI画像など膨大なデータがあり、そのような情報はAIが圧縮していくことになるでしょう。その上で、感情的なレベルのところでAIがどこまで面倒を見るかというのは、相当な個人差があるのではないでしょうか。
どうしても周りの人とのコミュニケーションが苦手で、AIの方が気楽だという人もいると思います。そういう人に「人間同士の関係こそ本物だ」と言うのは少々暴力的かもしれません。AIばかりが相手では寂しいと感じる人にはもちろん人間的なコミュニケーションが必要ですが、AIとだけ話せばいいならば職場に行けるという人は、むしろそれが尊重される方がいいのではないかと思います。
いま、後継者不足による技術の継承問題がいろいろな分野で問題になっています(※)。これも実は、本当に職人技の継承が必要なのか、それとももっとデータ化して一般化した形にできるのかという整理が重要だと思っています。医学の分野でも、日本だとスーパードクターの職人技が評価されますが、フランスだと、手術をアシストする「ダヴィンチ」のようなロボットの開発が進んで、誰が操作してもある程度、上手に手術できるという方向性がめざされました。システム的には、どちらが合理的なのか。
※ 関連情報:Linking Society企画 フロントラインワーカーの技能伝承とテクノロジー
とにかく情報量が膨大なので、一般化した方がいいことはどんどんやっていくべきでしょう、その上で、一見非効率に見えてもやはり人間がやった方がいいこともあるはずです。僕たちは、その選別を今後も続けていくことになるのでないでしょうか。
個人と分人のレイヤーをもつ
質問者:
私たちは、個人として国家に登録され、国籍という属性を与えられます。そうした社会システム自体が先生の提唱する分人の活躍を制限しているのも感じています。
平野さん:
グローバル化が進んで国家がなくなるという極端な議論もありますが、僕はやはり、町内会から地方自治体、国家、グローバルなコミュニケーションというレイヤー自体は必要だと思っています。二重行政の問題がよく話題になりますが、それでもそれぞれの行政単位が機能していることは重要で、全部効率化すると、結局は不便になるということもあります。
僕たちは、現実の仕事やコミュニケーションでは分人のレイヤーで動いていますが、生命の維持や社会保障の話になると、どうしてもIndividualのレイヤーに関与せざるを得ないところがあります。日本でいえば健康保険など、国家から何らかの恩恵をこうむっている限りは、国家を単純な悪のように捉えるのではなく、いかに良いものとして機能を使っていけるか、政治参加を通じて変革を試みていくしかないと思います。
人生は単線でないことに気づいてほしい
質問者:
分人の考え方は心の健康に良い影響を与えると改めて感じました。分人化を自覚するために、どのような支援ができるとお考えですか。
平野さん:
いま、学校の先生方は、子どもが自分の知らない分人でいるときにいじめに巻き込まれたり、追い詰められて自殺してしまうのではないかといった非常に強い不安を抱えています。そうした背景から、私が学校などに出向き子ども達にも分人の話をするときがあります。
子ども達に話をするときには、わかりやすく円グラフを描いて、「嫌な自分があるとしても、他の分人は嫌じゃないでしょう?」と話したり、「中学校時代には僕も嫌いな分人がいたけれど、もしこの小さい自分を消すために自殺していたら、他のすべての自分も失われてしまっていた。本来なら未来にはいろいろな人との出会いによって生じる自分がいるはずなのにそれを全部失ってしまっていたかもしれない。それは非常にもったいないんじゃないか」といった話をしています。
とにかく自分の人生が単線ではなくて、持続のための道がいくつかあると実感できることが重要だと思います。自分の人生が、学校に行って、会社に就職してという一本道しかないと思い込んでいる子どもに、選択肢は常に複数あるのだと意識づけていくことが重要だと思います。

平野さんの著書を熟読して集まったディスカッションのメンバー。会話は途切れることなく続いた
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平野 啓一郎
小説家
1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。
著書に、小説『葬送』、『高瀬川』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』等、エッセイに『本の読み方 スロー・リーディングの実践』、『小説の読み方』、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『考える葦』、『「カッコいい」とは何か』、『死刑について』等がある。2024年10月、最新短篇集『富士山』を刊行。
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平井 千秋
日立製作所 研究開発グループ Digital Innovation R&D デザインセンタ 技術顧問(Technology Advisor)
現在、協創方法論の研究開発に従事。
博士(知識科学)
情報処理学会会員
電気学会会員
プロジェクトマネジメント学会会員
サービス学会理事
![画像3: [Vol.4] 分人主義を取り入れた職場は幸せか│平野啓一郎さんと考える、AI時代の「分人」と「ID」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/05/13/d09587adeb6f6d617e3f75e966e1ba11b8f11b72.jpg)
鈴木 茜
日立製作所 研究開発グループ Digital Innovation R&D システムイノベーションセンタ デジタルエコノミー&コミュニティ研究部 主任研究員
日立製作所に入社後、公共や民間向けの様々な情報システムの研究開発に従事、情報セキュリティ分野、特に電子認証/デジタルアイデンティティに関しては多くの経験を有する。
![画像4: [Vol.4] 分人主義を取り入れた職場は幸せか│平野啓一郎さんと考える、AI時代の「分人」と「ID」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/05/13/0a3550813379e3674e5bfc32db32eb4754e5a9bf.jpg)
藤原 貴之
日立製作所 研究開発グループ Digital Innovation R&D
先端AIイノベーションセンタ AIビジネス推進室 室長
(Ph.D, Microsoft MVP for Mixed Reality)
日立製作所に入社後、デジタルテレビのソフトウェアテスト自動化、物流の倉庫作業効率化、様々な機器の保守訓練や現地作業の効率化など、多方面の案件に取り組み、近年は産業応用メタバース、フロントラインワーカー革新に関するプロジェクトに従事。2013年よりXRに関するコミュニティ活動を始め、2016年よりコミュニティ活動に対する国際表彰「Microsoft Most Valuable Professional」を8年連続受賞。
![画像5: [Vol.4] 分人主義を取り入れた職場は幸せか│平野啓一郎さんと考える、AI時代の「分人」と「ID」](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2025/05/13/2e03238e82d7d1efb3e57c3d590446a3e03f8857.jpg)
高田将吾
日立製作所 デジタルシステム&サービス 社会ビジネスユニット モビリティソリューション&イノベーション本部 モビリティDXセンタ 技師
日立製作所に入社後、都市・交通領域におけるパートナー企業との協創をサービスデザイナーとして推進。
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