
講演を通じて生まれた問いや日頃感じている疑問を、今井先生に次々と投げかける
ロボットと人間の違いから見えてきたこと
花岡:
近年、ロボットやAIの開発が急速に進んでいます。フィジカルAI分野の研究開発を行っている私たちにとっても、AIによる学習や知識の獲得については、その進化のあり方や、社会インフラへの実装、人との関係性など、考えるべき課題が非常に複雑になっていると感じています。本日はこの座談会の前に今井先生にご講演いただきましたが、まずはみなさんから自己紹介とともに、今井先生のお話しから感じたことをお聞かせください。
守屋:
私は画像認識や画像処理の研究者で、これらの技術をロボットの制御や物流に応用するための研究をしてきました。今日の今井先生のお話の中で、なぜ人は合理的な判断ができないかというと、感情があるからだというご指摘や、合理的な判断をしないことが多様な環境を生き残る知恵となっている、というご指摘に非常に刺激を受けました。ロボットもこれまでは合理的であることが前提でしたが、これから自律学習が進むと、必ずしもそうならないのではないかと思っています。ロボットも生き残るためにわざと間違えたり、こちらを騙すようなことをする可能性も出てくるかもしれません。そこを研究としてどう扱うかが極めて大事だと考えていて、今日のお話を伺ってこれからの方向性がだいぶはっきりしてきたと感じました。
吉永:
私も専門は画像認識の研究で、ご講演の前に今井先生に見ていただいたNaivy(ナイビー)というAIエージェントで、工場の現場などをメタバース上に再現し、人とロボットが協働する現場で行うべき作業を示す、フィジカルAIに関係するプロジェクトを推進しています。先ほど今井先生から「アブダクションの精度をあげていくのが熟練への道である」というお話を伺い、それは私たちがNaivyのプロジェクトでも感じていることでしたので非常に共感いたしました。それと、私は個人的にサッカーが好きなのですが、サッカーの一番の基礎は「ボールを止めて蹴る」ことなんです。初心者の頃はただ単純にボールを止めて蹴っているのが、プロになると、どういうふうに体を使うのか、周りの状況を見ながらどこで止めてどこにパスを出すか、大量の推論を一瞬で考えてやれるようになります。アブダクションの精度が高まるというのは、そういうことなんだろうと思いました。

NaivyのデモンストレーションでフィジカルAIを体験する今井さん。さまざまな疑問を研究者に問いかけていた
AIは記号接地ができるようになるか
花岡:
今井先生の著書においても「記号接地」がキーワードの一つに挙がっていますが「ロボットやAIは今後、記号接地ができるようになるのだろうか」ということが、研究者の間では話題になっており、私自身も大変興味深いところです。研究者のみなさんから、AIの記号接地についていま考えていることを聞いてみたいと思います。
守屋:
私からは、今のAIやロボット技術の相当な部分の基礎になっている「囲碁AI」について話してみたいと思います。
まずは人間の囲碁の世界の話をすると、プロの世界では盤面について「厚いけれど甘い」「味が悪いがもっと足早に辛く打つべきだ」みたいなことを言うんですよ。素人には何を言っているのか全く分かりませんね(笑)。ちなみに「甘い」というのは相手にポイントを安易に与えてしまうような手、「味が悪い」というのは今は良いけれどこの先自分が悪くなる可能性の高い状況を指します。
私も実は以前囲碁AIに関心をもっていたのですが、その頃は、こういう形容詞が理解できないと強いAIはできないのではないかと思っていました。ところが、全く関係ありませんでした。「甘い」も「辛い」もまったく理解しないまま、囲碁AIは人間よりも強くなってしまいました。
ただ、間違いなく言えるのは、人間にとってはこの形容詞を使った方が分かりやすいし、学びやすいということです。たとえば「厚みを囲うな」という格言があります。囲碁には同じ局面は現れませんから、同じ「厚み」と言っても、何万、何億というパターンがあります。それを「厚み」という言葉だけで共有できてしまう。こうした感覚の共有は人間にとっては必須なんです。
AIにも、人間と共生する上ではこうした感覚が必要なのではと思っています。そうでないと、人間に伝わらないんです。「評価値が何点で、10手先、20手先に進むとこうなる」と言われても、人間はまず理解できません。しかし、AIが「厚いけど若干甘いからダメなんだよ」と言ってくれると分かります。

囲碁AIの話題から、人とAIが情報を共有するための「記号接地」の可能性について問う守屋
今井さん:
これは非常に面白い観点だと思います。AIが人と共存するために、感覚を理解する、あるいは表現することは大事だと思います。しかし、それを記号接地によってなし得るかというと、やはり難しいのではないかと思います。
AIができるのは「どういう状況でこの表現をするのか」といった統計情報から導き出すことで、それは本当の意味での記号接地にはなりません。今の生成AIはどこまでも人間に寄り添ってくれますが、あれは記号接地をしているからではありませんね。「分かるよ、辛いんだね。君は悪くないよ」などと言ってくれますが、AIはその辛さを経験したこともありませんし、「辛い」というのがどういうことかを理解しているわけでもありません。人間の善悪の判断などはまったく理解しないまま、「悪くないよ」と言っているわけです。また、仮に記号接地ができるようになればAIが本領を発揮できるかというと、実はそうとも言えないのではないでしょうか。人間ができることと、機械ができることを分けた方がいいのではないか、機械は記号接地をせずにどうやって人間に合わせるか、ということを考えていった方がいいのではないかと思います。
言語は情報を削ぎ落とす
今井さん:
もうひとつ面白いと思ったのは、囲碁では何万通りのパターンを「厚み」という一言で片付けてしまう、というお話です。表面的には違いがあるものを同じものとしてまとめることで、情報量を削ぎ落として、人間の処理能力の範囲内で扱えるようにしてしまうわけですね。これは実は、言語の最も本質的で大事な役割なのではないかと思っています。
守屋:
そうやってまとめられた言葉で状況が共有できるのも、各人が「厚みがある」状況を体験し、理解できているからということですね。
花岡:
なるほど。私は囲碁が打てないので守屋さんから「厚いけど甘い」という言葉を最初に教えて頂いた時は「何のことを言ってるんだろう?」と確かに疑問に思ったんですが、自分の人生経験の中の似た場面を想起して、言わんとすることがなんとなく分かってきたんですよね。人間には他の経験というものがたくさんあることも、記号接地を容易にする一因なのかもしれません。
今井さん:
この「厚い」「甘い」といった表現がすごく面白いなと思うのは、ある種のモダリティを超えた共通性のある感覚を人が感じて、それを言語にしている点だと思います。人間の記号接地は、視覚情報のこの特徴が聴覚情報のこの特徴と似ているところがある、というふうに自然につながっています。ですから、どんな言語にもこういったモダリティを超えた比喩が存在するんですよね。「甘い」「辛い」といった感覚的な表現から始まり、それが盤面や人生の局面を指すようにまで抽象化されていく現象はどの言語にも見られますが、それはやはり人間が記号接地をするからなのだと思います。

五感を横断する比喩の面白さについて語る今井さん
ロボットの成長に何が必要か
吉永:
私たちの研究では、熟練者の知識や技能を新人にどう教えていくかといったことを扱っています。たくさんの記号接地が可能になるように、言語だけでなく画像、音声、センサーデータなどによってモーダル(※)を増やしていくことは、AIやロボットの理解力の向上や成長速度につながるのでしょうか。
※モーダル……テキスト、画像、音声、動画、センサーデータなど、AIが処理する情報の種類や形式のこと
今井さん:
私の感覚では、人間が記号接地するときに、その対象と記号が結びつくことはもちろん最初の一歩ですが、そこから「理解した」という感覚に至るには、抽象化していく段階があると思っています。抽象化が行われるからこそ、先ほど花岡さんがおっしゃったように、囲碁の経験がなくても、他のところから言葉の使い方が理解できるというような応用可能性が生じるのだと思います。対象と記号のシンプルな結びつきを超えた推論の過程がいかに厚くなっているかが重要なのではないでしょうか。
――個別のスキーマをもち、アブダクション推論を得意とする人間と、統計的な確率情報に基づく判断を得意とするAI。両者の幸せな関係とは?次回も引き続き語り合います。
![画像1: [Vol.1]ロボットと人間を分ける「記号接地」と言語の力│今井むつみさんと考える、人間とAIの創造的思考](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2026/03/19/5d8a72848e963dd8cfb8dfb2236422e96e87a344.jpg)
今井むつみ
一般社団法人 今井むつみ教育研究所 所長
慶應義塾大学名誉教授
文部科学省 中央教育審議会 専門委員(2025年1月~)
日本認知科学会フェロー。Cognitive Science Society Fellow(アジア初)
専門分野は、認知科学、特に認知言語発達科学、言語心理学。著書に『学力喪失―認知科学による回復への道筋』『算数文章題ができない子どもたち ことば・思考の力と学力不振』(共著)『言語の本質』(共著)『ことばと思考』『学びとは何か―〈探究人〉になるために』『親子で育てることば力と思考力』『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』『英語独習法』『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』ほか多数
![画像2: [Vol.1]ロボットと人間を分ける「記号接地」と言語の力│今井むつみさんと考える、人間とAIの創造的思考](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2026/03/19/cb2cecdcec5cfa8cc06c6baf2919da8eef48a60c.jpg)
花岡誠之
日立製作所 研究開発グループ
Digital Innovation R&D
Managing Director
1996年 大阪大学大学院 工学研究科 通信工学専攻 修士課程修了後、日立製作所 中央研究所 入社。次世代無線通信システム(3G、4G、5G、コグニティブ無線)の研究開発及び、3GPP、IEEE802等の国際標準化活動に従事した後、ネットワークシステム、コネクティビティ、ITプラットフォーム分野における研究開発及びそのマネジメントに従事。2018~2019年、本社 戦略企画本部 経営企画室 部長、2020年より研究開発グループ デジタルテクノロジーイノベーションセンタ長、2021年より同デジタルプラットフォームイノベーションセンタ長、2023年よりデジタルサービス研究統括本部 統括本部長を経て、2025年4月より現職。
IEEE、電子情報通信学会(シニア) (IEICE)、情報処理学会(IPSJ)、各会員。博士 (工学)
![画像3: [Vol.1]ロボットと人間を分ける「記号接地」と言語の力│今井むつみさんと考える、人間とAIの創造的思考](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2026/03/19/4a22fe552d01bed853659df9d2d830ac52385bfa.jpg)
守屋俊夫
日立製作所 研究開発グループ
Digital Innovation R&D モビリティ&オートメーションイノベーションセンタ
技術顧問
日立製作所入社後、システム開発研究所にてマルチメディアシステム、コンピューターグラフィクス、画像処理の研究開発に従事。その後、基礎研究所にて空間情報処理の研究開発、中央研究所ならびにテクノロジーイノベーションセンタにて、人工知能、人間・空間計測、ロボット、物流システムシステムなどの研究マネジメントに従事。電子情報通信学会、情報処理学会、IEEE各会員。博士(工学)。
![画像4: [Vol.1]ロボットと人間を分ける「記号接地」と言語の力│今井むつみさんと考える、人間とAIの創造的思考](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783605/rc/2026/03/19/dfc283867e1792ab71e9ea36e913c6746c69ef5c.jpg)
吉永智明
日立製作所 研究開発グループ
Digital Innovation R&D 先端AIイノベーションセンタ
ビジョンインテリジェンス研究部 部長
日立製作所入社以来、画像認識・映像解析AIの研究開発に一貫して従事。民生用ビデオカメラ向けの顔認識技術や、米国鉄道会社向けのアセット管理の映像解析技術の研究に従事。2015-2018年日立アメリカラボ研究員。2024年4月より現職。社会インフラを支えるフロントラインワーカーの課題解決を支援するマルチモーダルAIとメタバースの研究をプロジェクトを牽引。




