[Vol.1]数理モデルには、言葉を超えた奥深さがある
[Vol.2]人間の社会活動を数理モデルで捉え直す
[Vol.3]これからのコンピューターに求められるのは、「ざっくり」と「精密」のバランス
複雑なものごとを数理モデル化してクリアにする
――はじめに、そもそも社会課題を数理で解くにはどのような方法が考えられるのでしょうか。
山岡:
世の中にはさまざまな社会課題がありますが、それをいったん数式で表せる形にして、解決につなげるというイメージです。たとえば、スムーズな物流を実現するためにたくさんのトラックをどう動かしたらいいかを考えるときには、トラックの動きをいったん数式に落とし込み、コンピューターでその数式を解くことで、もともとの課題を解くことにつながるということです。
中垣さん:
私たちの生活は、実は数理によって支えられているんです。たとえばビルを建てたり、橋を架けたりするときには、十分な強度を持った構造物を造らないといけない。それらの設計時には必ず運動方程式などの数式が用いられます。
ほかの例でいうと、昔から「オペレーションズリサーチ」というものがあります。「システムの運用に関する問題に対し、科学的な方法を用いて最適な解決法を見つけること」と言えるでしょうか。たとえば、アルバイト複数人が挙げた都合のいい時間から、無駄なく無理なくシフト表を組む、あるいは複数ある信号機をうまく協調させて動かし、交通渋滞を減らすといったような例があります。そのときに用いられるのが「数理モデル」。数理モデルとは、さまざまな動きや現象を方程式などの数式で表現することです。ものごとにいろんな要因が絡んでどう解きほぐしていいのか判然としないときに、ある見方を導入して、単純化して数理の世界にうまく落とし込む。そういう見方を提供するのが数理モデルなんだと思います。
つまり数理モデルというのは、複雑な要因が絡み合いながら状況が移り変わっていく、その移り変わりの仕組みを記述するということなんですね。すると、状況がどうなっていくかということがすごくクリアに捉えられる。そこには、言葉で考えられるものをある意味超越した、非常に不思議な奥深さがあります。
山岡:
もうひとついうと、我々がいろんな問題を解こうとするとき、数理化する前に一度言語化しないといけないんですね。その現象がどういうものなのかということを言語化して、そのあと数理モデル化することをよくやっています。世の中のさまざまな課題や現象を言語化し、人が理解しやすいかたちにしてあげて、それを厳密に定義するのが数理モデルというイメージでしょうか。
CMOSアニーリングと粘菌の共通点は、自律分散型であること
――山岡さんが開発に携わっている半導体を使った新概念のコンピューティング技術「CMOSアニーリング」について教えてください。
山岡:
世の中には、さまざまな制約のもとで多くの選択肢のなかから最適な組み合わせを求める“組合せ最適化問題”というものが多数存在します。たとえば、勤務シフト作成や学校の時間割作成など。その複雑な計算を解くために我々が開発しているのが、イジングモデルと呼ばれる数理モデルを使った「CMOSアニーリング」というコンピューターです。
CMOSアニーリングをはじめて実際の問題に適用したのは、私たちが働いている研究所のコロナ禍での勤務シフト表です。部屋や実験室ごとの許容人数、個人の最低出勤日数や最大出勤人数、出勤希望日など複雑な条件をもとに、3密を回避できるシフト表の作成を行い、2020年6月から実際に運用を開始しました。
また、損保ジャパン日本興亜と連携し、再保険市場で損害保険ポートフォリオの最適化にCMOSアニーリングを活用しました。再保険とは、生命保険会社が1社で損害保険のすべてを引き受けるのではなく、他社とその一部を互いに持ち合うことで、大災害などがあったときにもきちんと保険金を支払えるようにするという仕組みです。リスクをより分散させるために、国内だけではなく海外の会社とも持ち合うとなると、再保険商品の銘柄の組み合わせは膨大になってしまいます。従来はその最適な組み合わせを計算するのに年単位の時間がかかっていましたが、CMOSアニーリングを活用することで数日程度にまで短縮することができます。お客さまには、非常に画期的だと言っていただいています。
――中垣さんは、どのような研究をされているのでしょうか。
中垣さん:
私は、単細胞生物である粘菌が、特に屋外環境での行動においてどんな情報処理をしているのかを、行動実験と数理モデル化を通して研究しています。つまり、まず粘菌の行動を運動方程式で書き表し(=数理モデル化し)、その式を使って粘菌の行動をコンピューターで再現する。そして、どのような状況でどんな行動が現れるかを調べているんです。
通常、野外では粘菌の餌になるものがあちこちに点在しています。粘菌は身体の一部をそれらに伸ばし、体内に輸送網のようなものをつくって必要な栄養素を吸収しています。過去に行った実験では、餌を関東圏の主な街の配置にあわせて置くと、餌同士をつないでネットワーク化し、関東圏の鉄道網と似た形が作りあげられました。人間が築いた鉄道網と、粘菌がつくった輸送網に通じるものがあるという非常に興味深い結果です。
中垣さん:
どうやって最短ルートを割り出しているのかを調べていったら、粘菌の身体のなかにある血管のような管が、状況に応じて太くなったり細くなったりするというローカルルールがあることがわかりました。そのことを僕らは「流量強化則」と呼んでいます。
おもしろいのは、全体を見わたしてどこの管の太さを変化させるか指令が出ているわけではなく、それぞれの管が、いわば身勝手に太さを変えるということ。この自律分散型の情報処理というのが非常に興味深いと感じています。
山岡:
「自律分散型」という点で、僕らの研究と中垣さんの研究はつながるところがあると思います。僕たちがCMOSアニーリングで使っているイジングモデルも、全体を見るというよりは、自律分散的な要素を組み合わせて最適なところを探していくんです。全体を見なくても全体最適になっているというのは、まさに自然現象のおもしろさなんじゃないかと感じます。
粘菌のふるまいは人間にも通じる
中垣さん:
粘菌は、自律分散的な動きをする一方で、ものが流れるときにはどこかでたくさん流れるとほかのところの流量が少なくなるので、総量が決まっているなかでは管の太さが相互に影響し合っているというのも大事なポイントだと思います。
そのうえで、粘菌の行動アルゴリズムを示す数理モデルを立てるときには、たとえばどれくらい流れるとどれくらい太くなるかという量的な関係が重要になります。それを少し変えると、最短な経路だけが残る場合もあれば、2番目、3番目に短い複数の経路が残るような形が出てきたり、あるいは最短ではない経路がひとつだけ残ることもある。流れと管の太さのさじかげんを決める関数をいろいろ変えることで、非常に多様なネットワークの形が出てくるんです。
もうひとつ、粘菌はあたかも自分で考えて難しい問題を解いているように見えるわけですが、おそらくそうではありません。そこにあるのは、管の発達のローカルルールだけなんです。ですから、餌の数がすごく多かったり、難しい配置になっていたとしても、そういうことは感知せず、管が勝手に太さを変えることで問題を解いているということですね。
鉄道網の実験もそうですが、そうした自律分散的な粘菌のふるまいは、実は人間にも通じるところがあります。そこには、もしかしたら生き物全体に通じる情報処理の共通アルゴリズムみたいなものがあるのかもしれない。それが、いま非常に興味を抱いていることです。
山岡:
人間がつくった鉄道網を模倣しようと考えたわけではないのに、粘菌の身体が似た形になったというのはおもしろいですよね。どちらも自律分散で動いているという点で、人間と粘菌はなにが違うのだろうと考えると、もしかしたら人間は一人ひとりが複雑に考えすぎているのでしょうか。なにかを創発させるときに、人間は余計なことを考えすぎてしまって良いものが生まれないことがあるけれど、粘菌は、無駄なことを考えないので、全体がうまく回っていくようなことを創発できるのかなと感じました。人間と粘菌の違いは、そういうところにあるのかもしれません。
次回はそれぞれの専門領域から、解くべき課題の仕立て方や社会課題へのアプローチについて語り、さらに対話を深めていきます。
中垣俊之
北海道大学電子科学研究所 物理エソロジー研究室 教授
粘菌をはじめとした単細胞生物の知性を研究している。北海道大学薬学研究科修士課程修了後、製薬企業勤務を経て、名古屋大学人間情報学研究科博士課程修了。理化学研究所基礎科学特別研究員、北海道大学電子科学研究所准教授、公立はこだて未来大学システム情報科学部教授を経て、2013年より現職。2017年から2020年まで北海道大学電子科学研究所所長を務める。2008年と2010年の2度、粘菌の研究でイグ・ノーベル賞を受賞。著書に『考える粘菌 生物の知の根源を探る』がある。
山岡雅直
日立製作所 研究開発グループ デジタルサービス研究統括本部 計測インテグレーションイノベーションセンタ エッジコンピューティング研究部 部長 兼 量子応用推進室 室長
研究開発グループにて、2013年のCMOSアニーリング技術開発開始時より本技術の研究開発を推進。社内のCMOSアニーリングやその他エッジ技術の研究開発を推進するとともに、顧客との協創活動やNEDO委託事業、未踏ターゲットプログラム、北大の客員教授としての人材育成などに関わり、新しいコンピューティング技術の普及に努めている。博士(情報学)、IEEE会員。
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